自治体職員が書く“子育て支援・教育行政”

行政窓口で待機児童の家庭のお話をうかがったり、制度設計に奔走している者にしかわからないところを伝えたい、という思いで書いています。子どもの幸せ・親の幸せに幼児教育・保育制度はどう寄与していけるのか、一つひとつ制度を深掘りしていきます。

こどもの貧困について

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 以前にSNSで「『努力すれば結果はついてくる』というのは本当か」という質問をみました。

 仏教の「因縁」という考えでは、結果があるのは「原因(当人の行い)」と「縁(周辺環境)」があってのことだと言われますが、つくづく縁は大切だと感じます。

 「がんばればなんとかなるはずで、なんとかなっていないのはがんばっていないからだ」と言われても、またそうした態度で接せられても、たしかにそれは努力を重ねてきた当人にとっては間違いない事実ですが、言われている相手はその人と同じ武器を人生で持たされていないのかもしれません。

 いや、がんばるための武器どころか、がんばる環境も、がんばることができる心の土台を養う機会も無かった人はどうすればよいのか。

 これまでに、教育というのは発達保障の取り組みであることをみていきました。

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 今回は、子どもの貧困についてみていきます。

1.人によってとらえにくい「子どもの貧困」

 「子どもの貧困」ということが本格的に報道で取り上げられるようになったのは、東京都立大学教授の阿部彩氏の『子どもの貧困-日本の不公平を考える 』(岩波新書)が世に出た平成20年(2008年)頃からだと言われます。

 一方で、それまでも教育格差はあり、現在にも続いていることは、これまでの記事で紹介しました早稲田大学准教授の松岡亮二氏が『教育格差-階層・地域・学歴』で明らかにされています。

 わたしたちの目に映る多くのものは、この70年で大きく変わった。農業従事人口の大幅な減少に代表されるように産業構造も大きく転換し、人々の仕事は変わり、教育を長い年数受ける人も増えた。(中略)

 一方で、生まれ落ちた社会階層によって人生が制限されているという観点では、大きく変わってきたわけではない。親の社会階層が子に引き継がれる階層再生産の研究は、総じて、相対的な格差が多少の変容はあれ基本的には変わらず存在していることを示している。

(出典元:松岡亮二「教育格差-階層・地域・学歴」ちくま新書

 私たちは自分の経験や想像の範囲で教育を語ってしまいがちですが、子どもの貧困という課題についても同様で、同じ「コドモノヒンコン」でもその受けとめはかなり違います。

 兵庫県立芸術文化観光専門職大学の学長であり、劇作家の平田オリザは、『22世紀を見る君たちへ これからを生きるための「練習問題」』(講談社現代新書)で、進学意識の格差についてふれながら、次のように述べられています。

 もはや東京の都心部では、公立中学にも「多様性」は存在しない。(中略)

 (引用者追記:講義される大学の)授業で「文化による社会包摂」といった話をしても、頭で理解はできるが実感がわかないようだ。なにしろ、周囲に貧乏な家の子がいなかったのだから。(中略)

 「相対的貧困」は表面化しにくい。小学生くらいでは、その格差が子ども同士では理解できない。中学生になって、友だち同士で「おい、日曜日にスケート行こうぜ」となったときに、「いや、俺ちょっとやめとくわ」という子が周囲にいて、初めて貧困、格差は実感できる。

 こうしたことを一度も経験しないで多くの子どもたちが、大学生そして社会人になっていく。もちろん大多数の若者は、アルバイトなどの社会経験の中で少しずつ現実に直面するのだろう。しかし、バイト先の選択にさえ格差が見え隠れするのが現状だ。

(出典元:平田オリザ『22世紀を見る君たちへ これからを生きるための「練習問題」』講談社現代新書

 「私の家はふつうだとおもう」と捉えている各人の「ふつう」が、自分と周囲の環境によって異なります。

 「生まれ」によって児童は異なる「ふつう」を生きる。家に本がたくさんあり、親に大学進学を期待され、習い事や通塾することが「ふつう」な子もいれば、そうでない子もいる。同様に、公立であっても各小学校には異なる「ふつう」がある。近所の「みんな」に合わせても、それが都道府県や日本全体の平均とは限らない。(中略)

 親の「意図的な養育」によって構造化された時間を日常として認知・非認知能力を向上させたり、両親大卒層の割合が高く、多くが通塾や長時間学習する「みんな」に合わせていたりすれば、大幅なギアチェンジをせずとも学歴獲得競争で先頭集団を維持することができるだろう。

 一方、長らく学校以外で構造化された時間を過ごさず、同じぐらい親の介入度合いの少ない生活を送っている「みんな」に合わせて「ふつう」な日々を送っていた児童は、中学校に入ってから陰に陽に「身の程」を「公式」に通知されることになる。

(出典元:松岡亮二「教育格差-階層・地域・学歴」ちくま新書

2.経済的資本の欠如が、健康・教育面の欠如やつながりの欠如につながっている

 大阪府立大学教授の山野則子氏は「日本では、貧困を「飢え」や「住宅の欠如」など「絶対的貧困」レベルで理解する傾向があるが、国際的には、貧困は相対的に把握されるべきものと理解されている」こと、そして「等価可処分所得が全体の中央値の半分に満たない「相対的貧困」状態の子どもは、1990年代半ばから増加傾向にあり、2012年に16.3%つまり6人に1人となった」現実を紹介しています。(『学校プラットフォーム』有斐閣

 イギリスの社会学者タウンゼントの定義を元にChild Poverty Action Group(CPAG)が示している、①所得や資産など経済的資本(capital)の欠如、②健康や教育など人的資本(human capital)の欠如、③つながりやネットワークなど社会関係資本(social capital)の欠如、の3つの資本の欠如・欠落を基本的な枠組みとしてとらえられよう。この視点で見ると、経済的資本の欠如が、社会的なつながりの欠如を生み、相乗作用となる

(出典元:山野則子「学校プラットフォーム」有斐閣

 子どもの貧困は、家庭の経済的な問題ですが、それは子どもの健康面に直接関わります。食事の栄養面であるとか、十分な医療を受けさせることができずに我慢せざるを得ない状況につながります。

 また、文化的な経験(いわゆる知的刺激)の欠如につながります。

 家庭や子ども自身の持っている本の冊数や通塾率、博物館・美術館などの文化施設を見学した回数での統計で、そうした文化的貧困の状況が指摘されています。

 ただ、通塾していようが、していまいが、家庭(親)の社会経済的背景(親が高学歴かどうかなど)が、子どもへの日々の教育的関わりや、豊富な語彙での言葉かけの差につながり、子どもの学力の差につながっているという指摘もあります。

 回数だけの問題でなく、家庭の経済格差や社会上の格差が、親や子どもの「本人なりのがんばり」とは違う次元で学力に作用しているのです。

3.愛着の貧困

 それら健康面、知的刺激の問題は前提としつつ、子供の貧困と教育政策を専門に執筆・講演活動を行っているポール・タフ氏は、経済的に不利な条件下にある子どもに関わる問題として、「神経科学者や心理学者、その他の研究者たちは、逆境のなかで育つ子供たちの問題についてべつの原因に焦点を合わせはじめており、私たちも不利な状況、有利な状況についての考え方を修正する必要がある」として、次のように主張しています。

 研修者らの結論によれば、環境による影響のなかで子供たちの発達を最も左右するのは、ストレスなのだ。(中略)

 感情面で見ると、幼い時期に慢性的なストレスを受けた子供は(略)失望や怒りへの反応を抑えることに困難を覚えるようになる。小さな挫折が圧倒的な敗北のように感じられ、ほんのすこし軽く扱われたように感じただけでも深刻な対立関係に陥る。(中略)

 この実行機能がきちんと発達していないと、複雑な指示に集中できず、学校生活にいつも不満を抱くようになってしまう。(中略)

 世話をする人が子供のもつれた感情に鋭敏に、注意深く反応するなら、子供はひどく不快な感情にも自分でうまく対処できるようになる。(中略)親のほんの小さな配慮が、非常に深いところからーきわめて重要な遺伝情報に関わる部分まで掘りさげるようにしてー子供の発達を助けるのだ。

(出典元:ポール・タフ「私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み、格差に挑む」英治出版

 ただでさえ子育ては戸惑いやイライラが募るもので、経済的に苦しい状況では、それが輪をかけて覆いかぶさってきます。

 

 本来的に、子どもに対する愛情レベルが、家庭の社会経済的背景で変わるのではありません。ですので、愛情差ではなく、家庭の社会経済的状況が、現在の社会制度に適応する力を身に着けさせる上での子育て実践の差として生まれている側面があります。

 

 一方で、愛着は後天的なものです。母性も父性もはじめからあるものではありません。まったく経済面や精神面で余裕がない親が、わが子への愛着の芽生えが不足しているとして、誰がそれを責めることができるでしょうか。

(愛着形成の関係は、以下の記事にもふれています。)

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4.まとめ

 神戸市の私立保育園の園長であった牧田稔氏は、神戸市で長く児童福祉活動に挺身された経験から次のように警鐘されています。

 保育現場にいると、子どもの貧困は、生活保護を受けているとか、母子家庭から経済的貧困が生じることは事実であるが、もう一つの子どもの貧困は、開発途上国に比較して日本のように経済的に豊かであっても、私たちの社会は、子どもが成長していく上での親子関係の貧困、養育機能・教育力・家庭力の貧困、食体験の貧困、健康管理の貧困、虐待・育児放棄等による子どもの情緒的・精神的貧困、生活・文化体験の貧困、自然環境の貧困等による影響が一般化してきたことも承知しなければなりません。これらの貧困は、日本の社会病理だと思います。

 つまり、普通の家庭での子どもの幸せや成長が、子育て環境・家庭環境の貧困や地域社会や生活環境の貧困、都市化による自然環境の貧困等によって阻害され、これらの貧困の要因が、子どもの成長に深く影響していることを認識しなければなりません。

(出典元:牧田 稔「ほいくの窓 保育現場から ~賀川豊彦献身100年を覚えて~」)

 国や自治体は、義務教育制度のほか、さまざまな取り組みで、「教育機会の保障」を進めていますが、先述の松岡准教授も先著の中で「「制度上は可能」であるとか「誰にでも機会が開かれている」という言葉は「(可能なのだから後は)本人(の能力と努力)次第」というメッセージを含意する」と、その建前の急所を突いています。(『教育格差 ー階層・地域・学歴』ちくま新書

 乳幼児期からの子育て支援は、保健的支援に加え、親子が愛着を深められる育児支援的要素も非常に重要であり、また、こうした子どもたちの課題をよく理解して、保育所や幼稚園、小学校以降の教師・保育者が子どもの保育や教育にあたっていくことが、不可欠であることが見えてきます。

 

 ここまで読んでいただきありがとうございました。(^^)/

「こどもまんなか社会」と「こどもの最善の利益」

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 最近なぜか、宣伝文句に冷めた目でみるようになってます。

 「とろとろ牛すじカレー」と書いてあるのをみると、無意識に「とろとろ」を外して「牛すじカレー」。

 「名物特製チャーシュー麺」も「チャーシュー麺」ですし、「店長入魂肉汁たっぷり餃子」も、まずは「餃子」と理解したあと、注文するかどうか考えるクセがついてしまいました。

 さて、国が令和5年度の早い時期に「こども家庭庁」を創設するというニュースが、年末に流れていました。

 昨年12月21日に「こども政策の新たな推進体制に関する基本方針」が閣議決定されたことを踏んでの報道です。

こども政策の推進に係る作業部会|内閣官房ホームページ

 この基本方針には副題がついていて、「~こどもまんなか社会を目指すこども家庭庁の創設~」とあります。

 私は、今でも、聞こえの良い「フワッと」した文句を使用して政策案を書くと、上司に「もっと具体的に分かる言葉で書くように」と指導されます。

 一方で、国が「こどもまんなか社会」と明記したのは、私の言葉選びの拙さとは別次元の、国としての相当の覚悟を持った言葉に違いありません。

 今回は、書き出し程度になりますが、基本方針を読んで「こどもまんなか社会」から少しふれてみます。

1.「こどもまんなか社会」とは「こどもに関する取組・政策を我が国社会の真ん中に据える」こと

 そもそも、「こどもまんなか社会」とは何か。これについては、先ほど紹介した基本方針に書かれています。

 (文章の途中から)こどもを取り巻く状況は深刻になっており、さらに、コロナ禍がこどもや若者、家庭に負の影響を与えている。今こそ、こども政策を強力に推進し、少子化を食い止めるとともに、一人ひとりのこどもの Well-being を高め、社会の持続的発展を確保できるかの分岐点である。
 常にこどもの最善の利益を第一に考え、こどもに関する取組・政策を我が国社会の真ん中に据えて以下「こどもまんなか社会」という。)、こどもの視点で、こどもを取り巻くあらゆる環境を視野に入れ、こどもの権利を保障し、こどもを誰一人取り残さず、健やかな成長を社会全体で後押しする。そうしたこどもまんなか社会を目指すための新たな司令塔として、こども家庭庁を創設する

出典元:「こども政策の新たな推進体制に関する基本方針」

 また、以下にも出てきます。

 こども政策については、これまで関係府省庁においてそれぞれの所掌に照らして行われてきたが、2.に掲げた基本理念に基づき、こども政策を更に強力に進めていくためには、常にこどもの視点に立ち、こどもの最善の利益を第一に考え、こどもまんなか社会の実現に向けて専一に取り組む独立した行政組織と専任の大臣が司令塔となり、政府が一丸となって取り組む必要がある。当該行政組織は、新規の政策課題に関する検討や制度作りを行うとともに、現在各府省庁の組織や権限が分かれていることによって生じている弊害を解消・是正する組織でなければならない。

出典元:「こども政策の新たな推進体制に関する基本方針」

 「こどもまんなか社会」とは、こどもに関する取組・政策を社会の真ん中に据えることだとしています。

 省庁間でそれぞれの趣旨に基づいて政策を推進している現状の中、それぞれ子どものことを思っての取り組みではありますが、ともすれば趣旨のズレが対応や取り組みのズレにつながっているとすれば、子どもが関係する事務を同一組織に再編することで、その複雑さが減り、子どもにとって良い方向に向かっていく。

 それは非常に大事な、急ぐべき事項であることがわかります。

2.「こどもの最善の利益」とは「子どもに関することが決められ、行われる時は、『その子どもにとって最もよいことは何か』を第一に考える」こと

 また、さきほど見てきた基本方針には、「こどもまんなか社会」の言葉の前に「こどもの最善の利益を第一に考え」とあります。

 これは「子どもの権利条約」の一般原則の一つです。

・子どもの最善の利益(子どもにとって最もよいこと)
 子どもに関することが決められ、行われる時は、「その子どもにとって最もよいことは何か」を第一に考えます。

(出典元:子どもの権利条約 | ユニセフについて | 日本ユニセフ協会

 子どもの最善の利益とは、「その子どもにとって最もよいことは何か」を第一に考えることとされています。

 他には、平成30年に厚生労働省がまとめている「保育所保育指針解説」に、以下の文章があります。

 「子どもの最善の利益」については、平成元年に国際連合が採択し、平成6年に日本政府が批准した児童の権利に関する条約(通称「子どもの権利条約」)の第3条第1項に定められている。子どもの権利を象徴する言葉として国際社会等でも広く浸透しており、保護者を含む大人の利益が優先されることへの牽制や、子どもの人権を尊重することの重要性を表している。

(出典元:「保育所保育指針解説」厚生労働省

 これまで、国も自治体もたくさんの子育て支援や教育の取り組みをしてきたことは間違いありません。

 ただ、「子どもがもっとも大事(真ん中)」ということと「子どもに関する取り組みがもっとも大事(真ん中)」ということは、似てはいますが、まったく違う帰結を生む可能性をはらんでいるようにも感じます。

 「子どもに関する取り組みが最優先事項である」ことはそのとおりですが(というか、「いまさら感」すらありますが・・・)、「子どもの利益が最優先事項である」ということはもっと大事なのではないでしょうか。

 

 先ほど紹介したユニセフの文章をもう一度読んでみますと、「子どもの最善の利益とは、「その」子どもにとって最もよいことは何かを第一に考える」とあります。

 「子どもを取り巻く社会全体にとってよいことを考えて取り組む」のではありません。「その」子どもなのです。いわゆるケースワークなのです。

3.まとめ

 「社会で子どもは大事ではない」と胸を張る人はあまりいらっしゃらないでしょうから、「子どもに関する取り組みを真ん中にする」だけなら、総論はおおかた賛成だと思います。その推進を主張する人にも何の痛みもないでしょう。みんな賛同し、推進する人を賞賛してくれると思います。

 一方で「全体最適」という大人の言い訳で片付けず、一人ひとりに寄り添った子ども施策を「建前でなく」進めるようとすることは、大人同士の軋轢も生じ、生半可な気持ちではできません。

 また、だからこそ児童発達や児童福祉、教育面の専門的知識も必要です。

 

 最近は殊にコロナ禍も直撃して、もともと大変だった子育て状況が大変なことになっており、親も子も、誰にもぶつけようもない苛立ちやストレスを抱えて、それでも結局は抱えきれずに誰かにぶつけ、負のスパイラルに陥っている話があちこちで聞かれます。

 そのぶつける誰かは、配偶者であったり、学校園であったりするのがよく聞く話なわけですが、親子の場合ももちろんあるわけで、つらい状況です。

 私が言う立場でもないですが、子どもが1歳なら親も親としてまだ1歳なわけですから、すぐにまっとうな親になれる人は、ある意味すごい人なのだと思います。

 今の課題に応えるこども家庭庁やそれを受けた自治体の取り組みにしていかないといけないと思います。

 

 今回の記事は、はじめにフワッとしたものはだめだと自分で言いながら、結局は抽象的な話になってしまいました。

 またどこかの機会で、もう少し具体的にふれていきたいと思います。

 

 ここまでお読みいただきありがとうございました。(^^)/

 

公教育のイロハをふりかえる

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 前回の記事では、学校より先に子どもがいて、その子どもの学習権があって学校が存在するという話をしました。

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 今回は、ちょっと教科書的な話になりますが、「公教育」「学校」「義務教育」といったワードが何を指しているのか、自分の頭の整理を兼ねて、みていきたいと思います。

1.公教育

(1)学校の設置者

 これまでも、生涯学ぶかまえが、発達段階に応じた体系立てられた学びの環境や援助によって育まれ、主体的に生きる力につながる視点を見てきました。

 公として子どもたちにそれらを育む環境を保障しようとするものが、学校教育という制度です。

 学校は公立・私立ともに公共の性質を持ちます。

 公教育という言葉を公立学校の教育に限定して使われることもありますが、一般的には、公立学校も私立学校も、公教育の実施主体とされています。

 学校を設置できるものは、国、自治体、学校法人に限られていますが(学校教育法第2条)、当面の間、幼稚園はそれら以外の宗教法人や個人等も設置できます。(学校教育法附則第6条)

 学校法人等が学校を設置するときや、市町村が高校、特別支援学校の高等部を設置するときなどは、都道府県の認可が必要です。

 認可とは、質の確保された運営が継続的に可能だと認めることと言えます。 

 「認可」については、以下の記事も参考にしていただければと思います。

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 私立学校は、『私立学校法』という法律に基づきます。

 私立学校は、私人が寄附した財産などによって設立・運営されることを原則とするものです。私財をなげうって創立者の「建学の精神」に基づいて「独自の校風」を築いてきたという特性に根ざして、所轄庁(公)による規制ができるだけ制限された法制度とされています。

 参考に私立幼稚園について、私立保育所(園)との制度比較をしながら以下の記事でもふれています。

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(2)学校・教育施設の種類

 学校・教育施設等の種類については、文部科学省「諸外国の教育統計」に学校系統図が掲載されています。

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              (グレー部分は義務教育)

(注)

1.*印は専攻科を示す。

2.高等学校、中等教育学校後期課程、大学、短期大学、特別支援学校高等部には修業年限1年以上の別科を置くことができる。

3.幼保連携型認定こども園は、学校かつ児童福祉施設であり0~2歳児も入園することができる。

4.専修学校の一般課程と各種学校については年齢や入学資格を一律に定めていない。

(出典元:文部科学省「諸外国の教育統計」令和3(2021)年版)

 法に定める学校では、学校教育法に定める学校として、幼稚園(幼稚園型認定こども園も幼稚園の一類型)、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学、高等専門学校があり、これらは、同法第1条に列記されているため、「1条校」と言われます。

 他には、「就学前の子どもに関する教育、保育等の総合的な提供の推進に関する法律」(いわゆる「認定こども園法」)で定められた幼保連携型認定こども園も法律で定められた「学校」です。

 平成27年度開始の子ども・子育て支援新制度により、幼保連携型認定こども園が学校でもあり児童福祉施設でもあると位置付けられたことで、学校=1条校では無くなりました。

就学前の子どもに関する教育、保育等の総合的な提供の推進に関する法律

第2条

7 この法律において「幼保連携型認定こども園」とは、義務教育及びその後の教育の基礎を培うものとしての満三歳以上の子どもに対する教育並びに保育を必要とする子どもに対する保育を一体的に行い、これらの子どもの健やかな成長が図られるよう適当な環境を与えて、その心身の発達を助長するとともに、保護者に対する子育ての支援を行うことを目的として、この法律の定めるところにより設置される施設をいう。
8 この法律において「教育」とは、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)第六条第一項に規定する法律に定める学校(第九条において単に「学校」という。)において行われる教育をいう

 そのほか、学校教育法、教育施設として専修学校が(同法第124条)、また、学校教育に類する教育を行うものとして各種学校について(同法第134条)規定されています。

 なお、保育所保育所認定こども園保育所の一類型)についても、「保育所保育指針」に「幼児教育を行う施設として共有すべき事項」が書かれており、教育的施設としての位置付けがなされています

(3)中立性

 教育学者で兵庫教育大学学長の加治佐哲也氏は、「公の性質」を有する「法律に定める学校」について、次のように述べています。

 公の性質とは公共的性格ということであり、公の性質をもつ学校とは、特定階層の国民や一部地域の住民ではなく、国民全体あるいは住民全体に役立つ教育を平等にほどこす学校の意味である。(河野和清編著『新しい教育行政学ミネルヴァ書房

 中立性について、教育基本法第14条には、第1項に「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない」との前提を置きつつ、第2項に「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない」としています。

 なお、続く第15条には、第1項において「宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない」と示した上で、第2項で「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない」とし、国公立学校における特定宗教の立場に立つ宗教教育を禁止しています。

2.義務教育

(1)就学義務、実施義務、無償

 公教育のうち、普通教育(職業的・専門的でない一般的・基礎的な教育)を保障しようとするものが義務教育制度です。

日本国憲法 第26条

2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

 憲法の「法律の定めるところ」を受けて、教育基本法には次のように書かれています。

教育基本法 第5条

1 国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う。

2 義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。

3 国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。

4 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない。

 ここで「無償」とされているのは、国民(父母など)が、その保護する子女(子どもたち)に教育を受けさせる義務を負っているだけではなく、国・社会もその責任を負っているということです。

 義務として、具体的に保護者には、いわゆる小・中・義務教育学校・特別支援学校小中学部の就学義務が課せられています(学校教育法第17条)。

 また、地方自治体には、親がわが子を就学させる学校を設置する義務を課しています。具体的には、小学校と中学校については市町村に(学校教育法第38条)、特別支援学校については都道府県に(第80条)課されています。

 無償について、判例では「憲法のこの義務教育無償規定は、授業料不徴収の意味であり、教科書、学用品等の教育に必要な一切の費用をまでを無償にすべく定められたものではない」(最高裁1964年2月26日判決)と解釈され、憲法上の無償の範囲は授業料に限定しつつ、1962年に「義務教育諸学校の教科用図書の無償に関する法律」が制定され、同年から教科書についても無償給与されています

 そのほか、家庭の所得によっては、就学援助制度が設けられるなどしています。

(2)フリースクール

 一方、普通教育を受けさせる義務=義務教育学校への就学義務がある中で、その枠組みでは教育を受けられない、また、その教育を望まない子ども、保護者、教育者は、別の場での教育を望む現状があります。

 そのニーズに応えようとしているのが、いわゆるフリースクールなどとよばれる団体や施設です。

 文部科学省も、これまでさまざまな変遷を経ながら、2017年の学習指導要領解説総則編において、「不登校生徒については、個々の状況に応じた必要な支援を行うことが必要であり、登校という結果のみを目標とするのではなく、生徒や保護者の意思を十分に尊重しつつ、生徒が自らの進路を主体的に捉えて、社会的に自立することを目指す必要がある。」としています。

 ある時代につくられた教育制度はその時代の様々な制約のもとにつくられ、それゆえいつの時代もその制度の枠組みではおさまらない人々がいます。その人々の教育を受ける権利を保障するためには新しい制度を考えねばなりません。(中略)

 新たな教育の理念と教育行政の支えにより新しく外延を広げた教育制度は、子どもの教育の機会を広げていきました。今後も様々な人々の教育機会は、新たな理念と教育行政の支えを受けた新たな教育制度によって保障されていくことになるでしょう。

(『アクティベート教育学05 教育制度を支える教育行政』ミネルヴァ書房

3.見方によっては、親権は「権利にあらざる権利」

 ここまで見てきました教育の義務は、教育を受ける・学習する権利の擁護のために設けられているものであり、子どもの権利の目線から存在するものです。

 民法第820条には「親権を行うものは、子の監護および教育をする権利を有し、義務を負う。」と規定されていますが、こうした観点も踏まえ、「親権の権利性とは、義務を第一次的に、優先的に履行する権利であり、その意味では、権利にあらざる権利」(堀尾輝久「教育入門」)だと言われています。

 

 今回は、教育行政の中で、公教育の基本的なところを簡単にまとめさせていただきました。

 

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました(*^^*)

「教育の本来の形」について

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 コロナ禍で少しも気の抜けない中、受験シーズンに突入しました。

 私は、大学受験で、泊まらなくてもいけそうな距離なのに、ビジネスホテルに泊まって受験したいと言い出し、当日の朝にホテルの朝食バイキングに興奮して、牛乳とオレンジジュースとグレープフルーツジュースを全部飲んで吐き気が止まらなくなり、受験する大学の保健室に駆け込み、試験時間に遅れた思い出があります。

 受験生の皆さんは、そんなことにならないよう、どうか体に気を付けて、乗り切っていただきたいなと思います。

 

 よく学校教育の問題点が議論されるとき「結局は小・中・高校の勉強の先にあるところの大学受験が変わらないと何も変わらないよ」という意見を聞きます。

 学習は大学に入るところで終わるものではなく、大学は「大いに学ぶ」と書きますので、大学でたくさん学ぶ人も多いのでしょう。 私は、残念ながらその貴重な機会をいろいろなことに悩むことに費やし、そのときの学習ストックがありませんので、今たくさん勉強しているのかなあと思っています。

 今日は、今までと少し毛色は違うかもしれませんが、子どもの時期にこだわらず教育というものをみていきたいと思います。

1. 生涯にわたって学ぶということ

 教育を受ける権利(学習権)が保障されるべきは、子ども(学齢期)に限ったことではありません。

 「教育基本法」には、「生涯学習の理念」として次の条文があります。

第3条

 国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。

(教育基本法)

 別の記事でもご紹介した東京大学名誉教授の堀尾輝久氏も「ことに変動のはげしい現代社会では、教育は制度化された学校に閉じ込められるのではなく、『あらゆる機会、あらゆる場所』において、すなわちその生涯を通していつでも、どこででも行われるべき」であるとしています。

 

 誰一人取り残さない(leave no one behind)持続可能でよりよい社会の実現を目指す世界共通の目標として、2015年の国連サミットで、「持続可能な開発のための2030アジェンダ」が全加盟国によって合意されました。

 その中で掲げられたSDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)の目標4(教育)にも、「すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し、生涯学習の機会を促進する」と謳われています。

 

2. 「生きる力」とは「学び続ける力」「成長し続ける力」

 7人の識者の主張を『生きる力ってなんですか?』にまとめられた、おおたとしまさ氏は、本著で次のように述べています。

 時代によって、生きていくために必要なスキルは変わります。 しかもその変化は現在加速度的に速くなってきています。 つまり、未来予測は大変困難。 「生きるためにこれとこれが必要だ」と教えてもらうことでは「生きる力」は身に付かないのではないかと思います。 その場その場で自分が生きていくうえで必要なものを自分で見極めて、どうやったらそれを手にすることができるかを考え、そのための努力を続けることができる力こそが「生きる力」の正体であるといえるのではないでしょうか。 学び続ける力、成長し続ける力と言ってもいいかもしれません。

(出典元:『生きる力ってなんですか?』おおたとしまさ 日経BP社)

 

 先日、幼稚園の園長先生に「早期教育をものすごくがんばってやらせていっても、その勢いで大人になるまでついていけるのは一握りの子どもたちで、後の子どもは疲れてしまって、逆にトラウマになることさえある」というようなお話をお聞きしました。

 生涯にわたって前向きに知識やスキルを身につけたい心を養い、他人にゆだねたり、他人への妬みや羨ましさに心を縛られたりせず、自分の頭で考えた道を自分の足で歩んでいけるよう、小さいときからの育ちや学びをずっとつないでいくことが大事なのだということを、生涯学習という言葉は教えてくれているのかもしれません。

 

3. 「自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利」

 1985年にユネスコの国際成人教育会議で発表した「学習権宣言」では、学習権について、読み書きの権利等と並べて、「問い続け、深く考える権利」「想像し、創造する権利」「自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利」 などが掲げられています。

 学習権とは「生涯を通して探求心を失わず、問い続け、分析し、熟考する権利であり、新しい世界を切り拓き、自ら歴史をつづる権利」と、先述の堀尾輝久氏も『教育入門』で言われています。

 

 歴史と言われると、私はガンダム世代ですので、シャアの「君は自分の手で、歴史の歯車を回してみたくないのか」をとっさに思い出してしまったのですが。。。

 ガンダムパワーワード 第117回「君は自分の手で、歴史の歯車を回してみたくないのか」 | GUNDAM.INFO

 

 少し、脱線しましたが、教育の話に戻ると、むしろこの言葉では、「歴史をつづる」のくだりの前の、「自分自身の世界を読みとり」に真髄があるような気がします。

 「自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利」とは、日本語訳の時点ですごい言葉ですが、原文では、「the right to read one's own world and to write history」で、「read」が「読みとる」と訳されているわけです。

 私は英語は苦手でしたので、あくまで印象論になりますが、この「read」は「読解」であり、「読」んで理「解」する。 「その言葉に込めた意味を読みとる、解(わか)る」ということだと思います。

 いわば、「自身の人生の意義(生きる目的)が分かり、それを成就する権利」というところでしょうか。

 これは、完全にイコール生涯学習だと思うとともに、生きることは学ぶことだというスタンスからしか出ない言葉だということがみえてきます。

 

4. 私塾的教育関係が、教育本来の形

 これまで、何度か教育・学習を「教育を受けられる権利」や「学習できる権利」というように、「権利」の観点を大切にみてきました。

 教育を受ける=学習するという行為は、受け身の話というよりも、もっと能動的な感覚があります。

 教育の形態には、家庭教育はもとより、学校だけでなく塾をはじめとしてさまざまな提供体があるほか、学習機会という意味では、学習する本人の意識次第で、有形無形から学ぶ無限といってよいほどのチャンスがあるのではないでしょうか。

 

 教育学者で著名な明治大学教授の斎藤孝氏は「教育の本来の形は、教師が店を開き、そこに生徒側が身銭を切って教えを受ける、という関係だ」とし、吉田松陰松下村塾緒方洪庵適塾を紹介して、「学ぶ側が自分で先生を選び、自らの意思で通ってくる」私塾的教育関係が、教育本来の形であると明らかにしています。

 そもそも塾は、学校と違っていつでもやめることのできるものだ。 自分自身の将来を考えて塾に通う判断を下す。 そうした判断をしっかりとできる子どもは伸びていく。 (略)

 お金を直接もらって教えている、という関係は、教育に真剣さをもたらす。 学校教育では、お金を生徒側からもらっているという感覚を持ちにくい。 公立学校では教育費は税金でまかなわれているので、なおさらだ。 (略)

 教育の成果をしっかりと出さなければいけない、という切迫感は、教育にとってマイナスの要因にはならない。 充実した教育内容と人間的なコミュニケーション、この二つを同時に味わうことができるのが、本来の塾の姿である。

(出典元:『教育力』斎藤孝 岩波新書

 

5. 学校はひとが生まれる以前からそこにあるのではない

 とはいえ、教育機会を均等に確保するために公教育として学校制度があり、間違いなく受けられるように義務教育制度の枠組みで校区が割り当てられ、子どもたちはそこに通っています。

 

 しかし、これとて学校より先に子どもがいて、その子どもの学習権があるわけです。

 学校はひとが生まれる以前からそこにあって、子どもが学齢期になればそこにやらねばならない場所だというのではなく、子育てと教育の責任はまず自分たち両親にあるという自覚をもち、その上で自分たちではできない専門的なことがあり、子どもたちに対して集団的になされたほうがより有効なものがあるという認識に支えられて、はじめて学校は子どもにとっても親にとっても、必要なものとなるのです。

(出典元:『教育入門』堀尾輝久 岩波新書

 

 孟母三遷ではないですが、昨今は「教育移住」という言葉も自然に聞くようになりました。

 子どもや保護者に選ばれる質の向上、指導や支援の専門性に裏付けられた信頼感が求められていると言えるのではないでしょうか。

 

 ここまでお読みいただきありがとうございました。 (^^)/

教育の取り組みを決めるときに拠りどころとする「専門性、思いや印象、世論」について

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 国や自治体の教育政策は行きあたりばったりだと言われることがあり、それは教育に限ったことではありません。

 ただ、教育には皆さん一家言あり、しかも本人の経験に基づく確固たる自信のもとに、保護者も、地域住民も、その代表も、学校関係者も、私を含めた職員も発言し、それが対話として成立しなかったとき、時として誰も望んでいなかったのではないかという結末に落着しかねない危うさを認識し、回避しなければなりません。

 今回は、特に公教育の取り組みを考えるときの拠り所をどうとらえるかについて、さまざまなご意見があるかと思いますが、少しみていきたいと思います。

 

 以下の記事もお時間がありましたらお読みいただければ幸いです。

kobe-kosodate.hatenablog.com

 

1.教育改革は思いつきや印象論が色濃く出ているのか

 いろいろな新しい教育の動きが始まることがあります。

 たとえば、「GIGAスクール」はコロナ禍を踏まえて当初の予定より前倒しで推進されています。

 こうした取り組みはどのように方向づけされていくのでしょうか。

 著名なフリージャーナリストの池上彰氏は、日本の教育は思い込みや印象論で進められているとして、次のように言われています。

 「教育再生」を議論している「教育再生実行会議」にしても、日本の教育全般について議論する「中央教育審議会」にしても、企業経営者や元スポーツ選手といった教育の専門家ではない人たちもメンバーに入っています。人選は、そのときどきに行われますから、継続性もありません。

 専門家でもなく、継続性もない「識者」と呼ばれる人たちによって、それぞれの印象や思い込みで、ああでもない、こうでもないと議論して教育改革案が決まってきた。そんな歴史があります。

(出典元:「池上彰の『日本の教育』がよくわかる本」池上彰 PHP文庫)

 また、早稲田大学准教授の松岡亮二氏は、「GIGAスクール構想」や、「9月入学論」、「大学無償化法」、「教員免許更新制」などの政策検討・決定における問題点を、研究者や行政官の論により明示し、次のように言われています。

 日本の教育改革の多くは「凡庸な思いつき」でできているといえます。(中略)

 

 国の制度というと専門家集団によって熟考された精緻な設計を期待したいところですが、思いつきの政策論に基づいていることは残念ながら珍しくありません。新型コロナ禍への対応としてメディアを賑わせた入学・始業時期を四月から九月に後ろ倒しするいわゆる「九月入学論」はその最たる例の一つといえるでしょう。(中略)

 

 「九月入学論」のように「思いつき」と言えるような法案のすべてが頓挫しているわけではなく、すでに制度化されたものもあります。

(出典元:「教育論の新常識 -格差・学力・政策・未来」松岡亮二 中央公論新社

 

2.住民全員の置かれた環境を想像することは誰にもできない

 教育の取り組みというのは、一義的にはその教育を受ける子ども等の幸せな人生につながることを目的としていることは、基本的に誰もが首肯するところだと思いますが、実際に各論に入りますと、経済的な観点や社会全体の観点などが付随してきて、育った環境の異なる私たちが考える方向性は、なかなか集約し得ません。

 

 特に教育の取り組みは、強い使命感や情熱を持った先人達が、その信念で切り拓いていかれた積み重ねで出来ており、それは、国民の代表者が自己の信念や情熱で教育政策を進めてきたことのみならず、特に私学教育において顕著であって、教育における自由や自治を尊重する精神は、そこからつながっていきます。

 しかし、個々人の課題感だけで、特に公(おおやけ)としての教育はうまくいくのでしょうか。 

 思いで切り拓くにも、そもそも、世界的に人口が多く、自国より小さい国は他にもいくつもあるこの日本の、住民一人ひとりの置かれた環境を想像することができる人間なんて一人も存在しないことなど、先述の松岡准教授は次のように言われています。

 教育格差という実態があるというデータを示されても、単に「感覚」として腑に落ちない人もいるかもしれません。一人ひとりが限られた時間の中で見聞きする実例数に限りがある以上、これは自然なことです。拙著で示したように、公立の小学校であっても、地域によって様々な差があります。親の大半が大卒で大学進学が前提となっている学校もあれば、そうではない学校も同じ日本社会に存在します。個人の経験が偏ったものであり得る以上、視界に入る範囲の実例で構築された感覚で社会全体を理解するのは難しいわけです。(中略)

 もし(日本の)教育をどうすべきという話であるなら、「個人の見聞に基づく実感」と「社会全体の実態」に乖離があり得る点を踏まえなければ、建設的な議論はできないはずです。(中略)

 繰り返しますが日本社会は個人で把握できるほど小さくありません

(出典元:「教育論の新常識-格差・学力・政策・未来」松岡亮二 中央公論新社

 こうしてみていきますと、客観的データに基づく政策の立案が大切ですし、そのデータに基づいて導き出されたものについては、自分の想像に基づく信念とずれていても、謙虚に受けとめ、その結論を尊重するような姿勢が、制度案を練る人、決定する立場の人をはじめ、社会の人たちみんなにとって大切なことなのではないかと思えます。

3.世論と専門性をどう考えるか

 次の話題は教育に限った話ではありませんが、お笑いコンビのロザンは、2021年9月27日にYouTubeで配信の「ロザンの楽屋」で、「『国民の声』とは何か」について二人で話し合っています。

 その中で、ロザンの宇治原さんは、京都大学名誉教授の佐伯啓思氏が福沢諭吉の文章を紹介していることを話しており、同様のそれは次の記事に記載がありました。

異論のススメ・スペシャ

 かつて福沢諭吉は「文明論之概略」のなかで次のようなことを書いていた。近年の日本政府は十分な成果をあげていない。政府の役人も行政府の中心人物もきわめて優秀なのに政府は成果をあげられない。その原因はどこにあるのか。その理由は、政府は「多勢」の「衆論」、つまり大衆世論に従うほかないからだ。ある政策がまずいとわかっていても世論に従うほかない。役人もすぐに衆論に追従してしまう。衆論がどのように形成されるのかはよくわからないが、衆論の向かうところ天下に敵なしであり、それは一国の政策を左右する力をもっている。だから、行政がうまくいかないのは、政府の役人の罪というより衆論の罪であり、まず衆論の非を正すことこそが天下の急務である、と。(以下略)

出典元:朝日新聞デジタル「民意が実現すれば政治はうまくいくか 福沢諭吉の懸念 佐伯啓思さん」2021年9月25日 17時00分

 これを皆さんはどう読まれるでしょうか。

 いわゆる大衆世論に沿って取り組みを進めることが国や自治体の仕事だというのは、基本的にその通りだと思います。

 一方で、ここで言われているように、なんでもかんでもみんなが言えばそれが正しい意見ではなく、それに精通した人にしか見えていない世界があることも否定できません。

 ロザンの菅さんは、それは「世論は一つなのか?」ということではないの?と言われていました。

 また、衆論の非を正すべしという点に関して、それは薄っすらおごりっぽいのではないかということも言われていました。

 以降の内容は、引用させていただいた話から離れますが、世論に関して経験則として実感することは「世論は日々変わる」ということです。

 昨今のコロナ対応の是非はその典型例のように思います。 

 一方で、これを言うと叱られそうですが、行政官も専門家もピンキリであって、それこそ十把ひとからげにはできません。

4.まとめ

 以前、私がある地域の住民の皆さんに、その地域での幼児教育や子育て支援の取り組みを説明し、ご意見・ご要望をお聞きする場がありました。

 そのとき、その場を企画運営していた、まちづくりコンサルタントの方が、「役所の人に要望をするときは、『向こうまでここに橋をかけてくれ』と具体の手段を言うのでなく、『向こうに渡れるようにしてくれ』と、その目的を伝えた方が、役所の人も、持っている知識経験から、こういうやり方があるとか一所懸命考える」というような話を住民の方々にしてくださいました。

 この話を思い出したのは、例えば先述の話のように多数の人が「この橋をかけてくれ」と言っているとしても、実は、この橋をかけることにこだわっている人は少数で、「向こう岸に渡れるようにしてくれたらよい」というのが本音の人が多数かもしれないということです。

 そこをきちんと把握せずに本意を見誤ると、予算が足りずにものすごく粗末な橋を架けて、使い勝手が悪く、かえって叱られるというような誰も望まない結末に行き着くことだってあり得ます。

 同様に、教育の取り組みを決めていくときに、「大多数がこの意見だ」と言われたとしても、それは抽象的な大枠の話であり、細部の議論になったとき、また違った意見が見えてくるかもしれません。

 

 また、別の側面の話ですが、以前、「ゆとり教育」という取り組みがありました。(例として示すだけで、その政策自体を今回批評するわけではありません。)

 ゆとり教育は「詰め込み教育はだめだから改善する」という論理展開で説明されたのですが、「詰め込み」から「ゆとり」というような純化した説明が、単純化した理解を生み、それで総論が集約されていくように思います。

 ですので、各論として以前の教育のどこどこは良かったけど、どこどこは悪かったみたいな具体的な内容は、世論としてすり合ってないままでも、単純化されたロジックの中で世論は集約され、一人ひとりがきちんと全容を理解させてもらえないまま、世論を形作る一翼を担ってしまう面もよく考えないといけないように思います。

 

 ここまでお読みいただきありがとうございました。(^^)/

学習における金銭の動機付けについて

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 令和4年が始まりましたが、年度でみると令和3年度も大詰めです。

 各自治体では、令和4年度の予算を決める議会が2~3月にあり、それに向けて、来年度に何を打ち出すか、推進するかの検討がほぼ決まっていたり、あるいは大詰めの段階だと思います。

 

 往時は、何か目玉施策はないかと上司に言われ、目立つ打ち出し策を企画できていないと「なにか玉は無いのか。考えろ」と言われました。

 今の私は、無理に目玉施策を作ることは無用で必要な取り組みをやれば良い、ただしスピード感を持ってやるようにと上司に言われています。

 以前は新規施策が思いつかないと「これって面白い視点だよね」と耳目を引きそうな思いつきが、ともすればそのまま実施まで進んでしまう危うさもあったように感じますし、今もその点は気をつけないといけないと思います。

 

 前置きが長くなりました。

 この話題をしたのは、教育や保育の施策形成において大事な点だと思うからですが、だいぶ以前にこういうことがありました。

 何かの子どもへのカード発行だったかを推進するために何をするかが職場で話題になったときに、子どもが本を読んだ冊数分だけポイントを付与したら良いのではないかという意見がでました。

 まあ、それは単なる意見出しの場であって本気で検討していったわけではないのですが、私はそれはなんか違うだろうと思い、その当時反対の意見をしましたが、そのとき、どういう理由で「違うだろう」と思ったのか、言語化できませんでした。

 しかし、現に例えばアメリカの学校では、学力向上に金銭的インセンティブを設定している例も増えていると聞きます。

 今回は、お金(やポイントなど換金できるもの)で学習を奨励することについて見ていきます。

1.学習に金銭的報酬をつけると効果はあるのか

 対象が子どもに限らず大人に対しても何かをさせる動機づけとして、「それをやってくれたら、これをあげるよ」とするのは、広く浸透しています。

 人間は欲(食べたい、寝たい、楽したい、儲けたい、目立ちたい、モテたい、カッコよくみられたい などなど)が行動の源泉になるものですので、この欲求を刺激すれば一般に人は動くものだということです。

 モチベーションアップのための見返りは、お金やモノが一般的になりますが、表彰するとか、みんなの前で褒められる機会を用意するなどもあります。

 なお、うつなどの心理をみていく中で、最も人を動かす、あるいは動かないようにさせるのは「うらみ」だということを読んだことがあり、これは非常に納得するところですが、今回は話がずれますので、また機会があれば取り上げたいと思います。

 今回は、考えやすい例として金銭的報酬を学習的な取り組みに取り入れる場合を見ていきます。

 大人の世界でも、仕事の出来を給料やボーナスに反映させることでモチベーションを上げる仕組みにしている会社が多く見られます。

 子供に対しても、ある程度のお金をかければ、大人が望むような子供の行動変化(成果)につながるのであれば、予算のある国・自治体や、お金のある親とすれば、楽で効果的な取り組みだと目に映るでしょう。

2.インセンティブ・プログラムの結果

 では、それがどのような結果となっているかをみていきたいと思います。

 子供の貧困と教育政策を専門に多数の執筆・講演活動を行っているポール・タフ氏は、ハーバード大学の経済学者であるローランド・フライヤー氏が、貧困地域のあるアメリカの都市の公立学校生徒を対象とした報奨制度の実験結果を紹介しています。

 PTAの会合に出席した保護者、本を読んだ生徒、生徒のテストの点数をあげた教師らに報奨金を支払った。もっと一所懸命に勉強するようにと、子供たちにインセンティブとして携帯電話を与えた。(中略)

 しかしながら、このインセンティブ・プログラムには、ほぼすべてのケースでまったく効果がなかった。(中略)

 シカゴ、ダラス、ニューヨークの3市では、2007年から2009年までのあいだに総額940万ドルの現金を2万7000人の生徒にインセンティブとして配った。ダラスでは読書に対して、ニューヨークではテストの得点に対して、シカゴでは教科の成績に対して報奨を与えた。またもや効果はなかった。「実験の結果は驚くべきものだった。生徒の成績に関する金銭的なインセンティブの効果は、どの市でも統計的にゼロだった」

(出典元:『私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み、格差に挑む』ポール・タフ 英治出版株式会社)

 この結果の評価は、基本的に事実のようですが、次のように解説している例も見られます。

 フライヤーは(略)金銭的インセンティブは、スラム地区の学校に通う子供にやる気を起こさせる一助になると信じている。(中略)

 こうした現金の支払いはさまざまな結果を生んだ。ニューヨークシティーでは、子供にお金を払ってテストの点数を上げようとしたが、学業成績はまったく向上しなかった。シカゴでは、好成績を収めた生徒に現金を与えたものの、出席率は改善したが共通テストでは何の成果も出なかった。ワシントンDCでは、報酬が一部の生徒(ヒスパニック、少年、行動に問題のある生徒)の読解力スコアの向上に一役買った現金の効果が最も大きかったのが、ダラスの2年生の場合だ。本を一冊読むたびに2ドルをもらった子供たちは、その年の終わりには、読解力スコアを向上させていたのだ。

(出典元:『それをお金で買いますか 市場主義の限界』マイケル・サンデル ハヤカワ文庫)

 では、他の例はどうでしょうか。

 ロチェスター大学の心理学者であるエドワード・デジ氏は、カーネギーメロン大学大学院で心理学を研究していた当時、キューブ型のパズルを組み立てることを2つのグループに違った頼み方をしました。

 1日目は、どちらのグループにも報酬を支払いませんでした。

 2日目・3日目も、一方のグループにはそのまま報酬の話をしませんでしたが、もう一方のグループに対しては、2日目に報酬を支払ったのちに3日目は資金が底をついたと言って報酬は無いと告げました

 するとどうなったか。

 3日を通じていちども報酬を受けなかったグループは、だんだんパズルに夢中になった。(中略)日を追うごとに、パズルを完成させるまでの時間を短縮させていった。(中略)学生たちは休憩時間もパズルをつづけ、時間を計ったり観察の対象になったりしていない(と学生たちは思っている)あいだもパズルをうまく完成させようとしていた。

 けれども2日めに報酬を受けたのち、3日めには受けなかったグループは、異なる行動を取った。2日めには、予想どおり、学生たちは小遣いを稼ごうとしてより懸命に、より早くパズルを完成させた。けれども3日め、デジがちょっと席を外すと、彼らはパズルに見向きもしなくなった。しかも支払いを受けた日より取り組みに熱意がなくなっただけでなく、1日め(支払いのことなど考えず、本能的にパズルを楽しんでいただけの初日)と比べても意欲が下がっていた。いい換えれば、わくわくするパズル遊びが報酬の導入によって「仕事」になってしまったのだ。仕事となれば、支払いを受けられないのにやりたがる人はいない。

(出典元:『私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み、格差に挑む』ポール・タフ 英治出版株式会社)

3.報酬はその行為を「稼ぐ手段化」し、手抜きにつながる

 これらをどう読めばよいのでしょうか。

 「仕事」という言葉には、能動的なものも受動的なものもありますが、ここでは、「生活の糧を得るためにやらざるを得ない」という意味合いで「仕事」の言葉を使っていると読めます。

 金銭的なごほうびをつけると、その行為が「稼ぐ手段化」していることが見えてきます。

 そうなると、自分の学生アルバイト時代を思い出すようで、いささか苦しいですが、報酬があるときだけ頑張るという姿勢になったり、手抜きしながらノルマだけ達成しようとしたり、いわゆる手抜きにつながっているようです。

 それに加え「稼ぐ手段化」は、その行為をやることよりも、その後の報酬が目的になりますので、その行為(今回ならパズル)自体の魅力(面白さを理解する力)を下げていることも分かります。

 そして、魅力が下がる(面白味が分からない)と、やらされている感覚が強くなります。

4.「稼ぐ手段化」は、その行為自体の魅力を下げて「やらされ感」につながる

 ここで思い出すのは、マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』です。

 

 トムがいたずらをした罰として、大きな壁のペンキ塗りをするように言いつけられます。嫌々やりながら友達に手伝いを頼んでも、誰も見向きもしないわけです。

 そこでトムは閃いて、とても楽しそうに壁塗りをはじめるのです。それが友達にはとても面白しそうに見えて、自分もやらせてくれないか、このリンゴをあげるからと友達が言ってくるようになります。最後はトムが「しょうがないなー、じゃあ、やらせてあげるよ」と言って、友達からたくさんのプレゼントをもらいながら、壁塗りまでさせることに成功するという話です。

 いろいろな教訓が得られる話ではありますが、今回の話に関連して振り返ると、物事に取り組むときは、「やらされている」気持ちで物事を受けとめる場合と、「自分からやりたい」気持ちで物事を受けとめる場合とがあることが分かります。

5.「やらされ感」ではなく、「自分が選んだ行為化」できるか

 先ほどに続き、ポール・タフ氏は、前述のエドワード・デジ氏と、同様にロチェスター大学の心理学者であるリチャード・ライアンの2人の論文を紹介している中で、次のように書かれています。

 さらに2人は、人が求める3つの鍵を見きわめたー「有能感」「自律性」「関係性(人とのつながり)」である。そしてこの3つが満たされるときにかぎり、人は内発的動機づけを維持できると述べた。

 デジとライアンは数十年をかけて複数の実験をおこない、外的な報酬(フライヤーの研究で中心となった物質的なインセンティブは、長期にわたるプロジェクトへの動機づけとしては効果がなく、多くの場合、むしろ逆効果でさえあることを示した。

(出典元:『私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み、格差に挑む』ポール・タフ 英治出版株式会社)

 この言及後、ここに出てくる「自律性」を子どもたちが実感してモチベーションにつながるのは、管理や強制されていると感じずに自分でこの行為を選択していると実感している状態だと書かれています。

 

 とはいえ、現実問題として、社会のだいたいのことは、完全な自発的な行為は少なく、他者から「やったほうがいいよ」「やりなさい」と言われたり、情報が耳から入ったりして行動に移すものかもしれません。

 それを「そうだね。それを聞いて私もやった方がいいと思うからやってみるよ」と、心の中で、「それは結果的に自分が選んだ道だ」と消化・転換できる力もとても大事だと思えます。

 そう考えていくと、単にインセンティブは学習には効果が薄いというのではなく、自分で選んだ行為を頑張りぬくときに、さらなる努力に向けてご褒美を設定するのは、効果が有るケースも多々あるのではないかとも思えます。

6.行為を金額に変換することは、その行為の価値を下げる

 最後に、成果につながるか否か以外の、別の観点でも見てみます。

 NHKハーバード白熱教室」で日本でも著名なハーバード大学教授のマイケル・サンデル氏は、あらゆるものが売買される時代になってきている現在、そもそもお金で買えないような価値あるモノや行為に値段が付けられていくことは、そのモノや行為のかけがえのなさ・大切さを貶めるものであると警鐘し、お金では買えない道徳的・市民的善を問いかけ、次のように述べています。

 子供が本を読むたびにお金を払えば、子供はもっと本を読むかもしれない。だがこれでは、読書は心からの満足を味わわせてくれるものではなく、面倒な仕事だと思えと教えていることになる

(中略)

 私は、環境や、育児や、教育への高潔な姿勢を促すことが、それと対立する考え方につねに優先すべきだと主張しているわけではない。(略)

 学業成績の振るわない子どもにお金を払って本を読ませることが、読解力の劇的な向上につながるとすれば、試してみようと思うだろうー勉学の楽しみを教えるのは後でも大丈夫だと願いつつ。だが大切なのは、賄賂を贈っているのを忘れないことだ。それは道徳的に妥協した行為であり、より低級な規範(お金をもらうための読書)をより高級な規範(読書欲による読書)の代わりとするものなのである。

(中略)

 子供が読書を報酬目当ての仕事とみなすようになり、自分のための読書の喜びが損なわれてしまうかどうかを、われわれは気にすべきだろうか。答えは場合によって異なる。だが、この問題に答えようとすれば、金銭的インセンティブの効果を予測するだけではすまない。道徳的な評価を下す必要があるのだ

(出典元:『それをお金で買いますか 市場主義の限界』マイケル・サンデル ハヤカワ文庫)

7.まとめ

 「お金で買えない価値がある、買えるものはマスターカードで」というキャッチコピーがテレビによく流れていましたが、お金で買えない価値をお金に換算できるようにした時点で、それがお金を得るための道具と成り下がっていくことが見えてきます。

 一方で、勉学の業績を武器として、なんとか生きる道を切り拓いていこうとしている人にとっては、勉学はまさに生きる術(手段)であり、学ぶことそのものにかけがえのない価値があるのだと言われても、むしろ空虚に聞こえるかもしれません。

 ただ、教育が発達保障の営みと言うならば、子どもに学力が育まれるというのは、子どもの成長・発達の一側面と言えます。子どもの成長は、お金で即席で出来ないものであり、また、長い目で子どもの幸せ感を考えたとき、お金で即席で得ようとしてはいけないものなのではないかと考えさせられます。

 

 ここまでお読みいただきありがとうございました。(^^)/

 

「能力に応じた」教育を受ける権利とは

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 前回の記事で、教育は人権保障の観点から進められるものとして、日本国憲法第26条第1項に「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」とあることを紹介しました。
kobe-kosodate.hatenablog.com
 この観点でもう少し続けてみていきたいと思います。

1.子どもの人権

 前回の記事で、教育は生存権社会権の観点から権利化されているものであることをみていきました。

 ここで子どもについてみていくと、大人と同様にひとりの人間として尊重されるべき人権があるということに加え、成長の過程で特別な保護や配慮が必要な、子どもならではの権利もあるとされています。

2.子どもの権利条約

 子どもの権利については、子どもの権利条約が有名です。これは1989年の第44回国連総会において採択され、1990年に発効しました。日本は1994年に批准しています。
 子どもの権利条約では、大きく「生きる権利」「育つ権利」「守られる権利」「参加する権利」の4つの権利が挙げられています。
 また、この条約を貫く4つの一般原則として、
「生命、生存及び発達に対する権利(命を守られ成長できること)」
「子どもの最善の利益(子どもにとって最もよいこと)」
「子どもの意見の尊重(意見を表明し参加できること)」
「差別の禁止(差別のないこと)」

が挙げられています。
 ですので、すべての子どもの命が守られ、もって生まれた能力を十分に伸ばして成長できるよう、医療や教育、生活への支援を受けることなどが保障されなければならないのです。

3.可能性の開花の時期を失うということ

 前回の記事でも引用した堀尾輝久氏は「人間は文化的・社会的環境のなかで、周囲からのさまざまな配慮をうけることによって初めて一人前の人間になるのであり、もしこういう条件を欠いた場合にはその可能性の開花の機会を失って」しまうことを、オオカミに育てられた野生児の事例(イタール『アヴェロンの野生児』福村出版)と、人間に育てられたライオンの話(J・アダムソン『野生のエルザ』文春文庫)を引き合いに出して、次のように述べられています。

 雌ライオンのエルザは、人間の家族のなかで育てられても、ライオンの自然(本性)を基本的には変えることなく、やがて野生にもどることができました。しかし狼に育てられた野生児は、周囲の人びととの情動的交流を基礎に言語を覚え、行動の基本的パターンが育つ乳幼児期に人間的環境と文化との接触を欠いたことによって、人間的諸能力の発達可能性そのものが、将来にわたって欠損を受けることになったのです。  
(出典元:『教育入門』堀尾輝久 岩波新書

 ルソーの「エミール」は「子どもの発見」の書として有名ですが、そこには「自然(=自然法則:著者注)は子どもがおとなになるまえに子どもであることを望んでいる。この順序をひっくりかえそうとすると、成熟してもいない、味わいもない、そしてすぐに腐ってしまう速成の果実を結ばせることになる。わたしたちは若い博士と老いこんだ子どもを与えられることになる」と書かれています。

4.「能力に応じて」=能力主義

 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。(教育基本法第4条第1項)

 この教育基本法の条文を読むと明らかなように、「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」とある憲法第26条は、身分的差別からの解放と平等の発想から、能力以外の一切の差別を拒んだ「教育の機会均等」を謳ったものです。
 しかし、この「能力に応じて」の文言は、一方で、能力による社会的選別、階級化を容認あるいは推進する論拠とされるようにもなっています。
 明治時代の小学校、(尋常・高等)中学校、帝国大学の学校制度は、富国強兵に向けた社会の階層秩序を作ることが期待されていましたが、戦後でも、特に高度経済成長期以降、能力主義はある意味で広く浸透していると言えます。
 優秀な一握りの人材に十分な教育を確保し、その人間がこの社会をけん引していかないとこの社会はやっていけない、それが社会全体のためでもあるのだとの論調は、ある意味で自然に受けとめる人が多いのかもしれません。
 また、「なんとかすればなんとかなる。なんともなってないのは努力が足りないからだ」という観念は、いわゆる成功者と自負している人の中に特に多い考えかもしれません。
 一方で、その一握りのエリート以外の人が十分な教育を受けられないのならば、それは一人ひとりの自立・自由が社会の自立の基礎だという民主的発想と相容れないことになってしまいます。

5.まとめ〜「能力に応じた教育」=「発達の必要に応じた教育」

 では、さきほど挙げた日本国憲法教育基本法の条文はどのように解釈されているのか。今回のまとめとして2つご紹介します。

 能力に応じたひとしい教育機会とは、各人の知的・身体的能力の程度に質的・量的に比例した教育を用意することでも、すべての人に機械的に均一の教育を与えることでもなく、各人のそのときの能力を最大限に伸長させる教育を提供することを意味する
(出典元:『新しい教育行政学』河野和清編著 ミネルヴァ書房

また、

 戦後教育は平等を求めるあまり画一主義的であったとし、それにかわるものとして能力主義による再編が必要だというのですが、他方でこの能力主義を、憲法教育基本法にある「能力に応じて」という文言を援用して合理化しようとしています。「能力に応じて」の教育は、憲法教育基本法の解釈問題としても重要な争点となっています。しかしこの文言の能力主義的解釈は、戦後教育改革の精神と立法意思に即しての正しい解釈とはいえません。制定された当時のこの文言に関する大かたの解釈は、戦前の画一的教育を批判し、個性尊重の教育をうたうものと理解されていたからです。さらに、戦後民主教育の展開につれて、「能力に応じて」は、「発達の必要に応じて」と読まれるべきことが主張されているのです。
(出典元:『教育入門』堀尾輝久 岩波新書

 いかがでしょうか。ここまで見ていきますと、特に子どもの教育とは、一人ひとりの発達保障の営みなんだと、頭の中がスッキリ入ってきます。

 「教育の機会均等」については、特に子どもの貧困の観点からいつかの機会に改めてみていきたいと思います。

 2022年の記事一つ目になります。ここまでお読みいただきありがとうございました(*^^*)