自治体職員が書く“子育て支援・教育行政”

行政窓口で待機児童の家庭のお話をうかがったり、制度設計に奔走している者にしかわからないところを伝えたい、という思いで書いています。子どもの幸せ・親の幸せに幼児教育・保育制度はどう寄与していけるのか、一つひとつ制度を深掘りしていきます。

「能力に応じた」教育を受ける権利とは

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 前回の記事で、教育は人権保障の観点から進められるものとして、日本国憲法第26条第1項に「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」とあることを紹介しました。
kobe-kosodate.hatenablog.com
 この観点でもう少し続けてみていきたいと思います。

1.子どもの人権

 前回の記事で、教育は生存権社会権の観点から権利化されているものであることをみていきました。

 ここで子どもについてみていくと、大人と同様にひとりの人間として尊重されるべき人権があるということに加え、成長の過程で特別な保護や配慮が必要な、子どもならではの権利もあるとされています。

2.子どもの権利条約

 子どもの権利については、子どもの権利条約が有名です。これは1989年の第44回国連総会において採択され、1990年に発効しました。日本は1994年に批准しています。
 子どもの権利条約では、大きく「生きる権利」「育つ権利」「守られる権利」「参加する権利」の4つの権利が挙げられています。
 また、この条約を貫く4つの一般原則として、
「生命、生存及び発達に対する権利(命を守られ成長できること)」
「子どもの最善の利益(子どもにとって最もよいこと)」
「子どもの意見の尊重(意見を表明し参加できること)」
「差別の禁止(差別のないこと)」

が挙げられています。
 ですので、すべての子どもの命が守られ、もって生まれた能力を十分に伸ばして成長できるよう、医療や教育、生活への支援を受けることなどが保障されなければならないのです。

3.可能性の開花の時期を失うということ

 前回の記事でも引用した堀尾輝久氏は「人間は文化的・社会的環境のなかで、周囲からのさまざまな配慮をうけることによって初めて一人前の人間になるのであり、もしこういう条件を欠いた場合にはその可能性の開花の機会を失って」しまうことを、オオカミに育てられた野生児の事例(イタール『アヴェロンの野生児』福村出版)と、人間に育てられたライオンの話(J・アダムソン『野生のエルザ』文春文庫)を引き合いに出して、次のように述べられています。

 雌ライオンのエルザは、人間の家族のなかで育てられても、ライオンの自然(本性)を基本的には変えることなく、やがて野生にもどることができました。しかし狼に育てられた野生児は、周囲の人びととの情動的交流を基礎に言語を覚え、行動の基本的パターンが育つ乳幼児期に人間的環境と文化との接触を欠いたことによって、人間的諸能力の発達可能性そのものが、将来にわたって欠損を受けることになったのです。  
(出典元:『教育入門』堀尾輝久 岩波新書

 ルソーの「エミール」は「子どもの発見」の書として有名ですが、そこには「自然(=自然法則:著者注)は子どもがおとなになるまえに子どもであることを望んでいる。この順序をひっくりかえそうとすると、成熟してもいない、味わいもない、そしてすぐに腐ってしまう速成の果実を結ばせることになる。わたしたちは若い博士と老いこんだ子どもを与えられることになる」と書かれています。

4.「能力に応じて」=能力主義

 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。(教育基本法第4条第1項)

 この教育基本法の条文を読むと明らかなように、「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」とある憲法第26条は、身分的差別からの解放と平等の発想から、能力以外の一切の差別を拒んだ「教育の機会均等」を謳ったものです。
 しかし、この「能力に応じて」の文言は、一方で、能力による社会的選別、階級化を容認あるいは推進する論拠とされるようにもなっています。
 明治時代の小学校、(尋常・高等)中学校、帝国大学の学校制度は、富国強兵に向けた社会の階層秩序を作ることが期待されていましたが、戦後でも、特に高度経済成長期以降、能力主義はある意味で広く浸透していると言えます。
 優秀な一握りの人材に十分な教育を確保し、その人間がこの社会をけん引していかないとこの社会はやっていけない、それが社会全体のためでもあるのだとの論調は、ある意味で自然に受けとめる人が多いのかもしれません。
 また、「なんとかすればなんとかなる。なんともなってないのは努力が足りないからだ」という観念は、いわゆる成功者と自負している人の中に特に多い考えかもしれません。
 一方で、その一握りのエリート以外の人が十分な教育を受けられないのならば、それは一人ひとりの自立・自由が社会の自立の基礎だという民主的発想と相容れないことになってしまいます。

5.まとめ〜「能力に応じた教育」=「発達の必要に応じた教育」

 では、さきほど挙げた日本国憲法教育基本法の条文はどのように解釈されているのか。今回のまとめとして2つご紹介します。

 能力に応じたひとしい教育機会とは、各人の知的・身体的能力の程度に質的・量的に比例した教育を用意することでも、すべての人に機械的に均一の教育を与えることでもなく、各人のそのときの能力を最大限に伸長させる教育を提供することを意味する
(出典元:『新しい教育行政学』河野和清編著 ミネルヴァ書房

また、

 戦後教育は平等を求めるあまり画一主義的であったとし、それにかわるものとして能力主義による再編が必要だというのですが、他方でこの能力主義を、憲法教育基本法にある「能力に応じて」という文言を援用して合理化しようとしています。「能力に応じて」の教育は、憲法教育基本法の解釈問題としても重要な争点となっています。しかしこの文言の能力主義的解釈は、戦後教育改革の精神と立法意思に即しての正しい解釈とはいえません。制定された当時のこの文言に関する大かたの解釈は、戦前の画一的教育を批判し、個性尊重の教育をうたうものと理解されていたからです。さらに、戦後民主教育の展開につれて、「能力に応じて」は、「発達の必要に応じて」と読まれるべきことが主張されているのです。
(出典元:『教育入門』堀尾輝久 岩波新書

 いかがでしょうか。ここまで見ていきますと、特に子どもの教育とは、一人ひとりの発達保障の営みなんだと、頭の中がスッキリ入ってきます。

 「教育の機会均等」については、特に子どもの貧困の観点からいつかの機会に改めてみていきたいと思います。

 2022年の記事一つ目になります。ここまでお読みいただきありがとうございました(*^^*)