自治体職員が書く“子育て支援・教育行政”

行政窓口で待機児童の家庭のお話をうかがったり、制度設計に奔走している者にしかわからないところを伝えたい、という思いで書いています。子どもの幸せ・親の幸せに幼児教育・保育制度はどう寄与していけるのか、一つひとつ制度を深掘りしていきます。

教育の取り組みを決めるときに拠りどころとする「専門性、思いや印象、世論」について

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 国や自治体の教育政策は行きあたりばったりだと言われることがあり、それは教育に限ったことではありません。

 ただ、教育には皆さん一家言あり、しかも本人の経験に基づく確固たる自信のもとに、保護者も、地域住民も、その代表も、学校関係者も、私を含めた職員も発言し、それが対話として成立しなかったとき、時として誰も望んでいなかったのではないかという結末に落着しかねない危うさを認識し、回避しなければなりません。

 今回は、特に公教育の取り組みを考えるときの拠り所をどうとらえるかについて、さまざまなご意見があるかと思いますが、少しみていきたいと思います。

 

 以下の記事もお時間がありましたらお読みいただければ幸いです。

kobe-kosodate.hatenablog.com

 

1.教育改革は思いつきや印象論が色濃く出ているのか

 いろいろな新しい教育の動きが始まることがあります。

 たとえば、「GIGAスクール」はコロナ禍を踏まえて当初の予定より前倒しで推進されています。

 こうした取り組みはどのように方向づけされていくのでしょうか。

 著名なフリージャーナリストの池上彰氏は、日本の教育は思い込みや印象論で進められているとして、次のように言われています。

 「教育再生」を議論している「教育再生実行会議」にしても、日本の教育全般について議論する「中央教育審議会」にしても、企業経営者や元スポーツ選手といった教育の専門家ではない人たちもメンバーに入っています。人選は、そのときどきに行われますから、継続性もありません。

 専門家でもなく、継続性もない「識者」と呼ばれる人たちによって、それぞれの印象や思い込みで、ああでもない、こうでもないと議論して教育改革案が決まってきた。そんな歴史があります。

(出典元:「池上彰の『日本の教育』がよくわかる本」池上彰 PHP文庫)

 また、早稲田大学准教授の松岡亮二氏は、「GIGAスクール構想」や、「9月入学論」、「大学無償化法」、「教員免許更新制」などの政策検討・決定における問題点を、研究者や行政官の論により明示し、次のように言われています。

 日本の教育改革の多くは「凡庸な思いつき」でできているといえます。(中略)

 

 国の制度というと専門家集団によって熟考された精緻な設計を期待したいところですが、思いつきの政策論に基づいていることは残念ながら珍しくありません。新型コロナ禍への対応としてメディアを賑わせた入学・始業時期を四月から九月に後ろ倒しするいわゆる「九月入学論」はその最たる例の一つといえるでしょう。(中略)

 

 「九月入学論」のように「思いつき」と言えるような法案のすべてが頓挫しているわけではなく、すでに制度化されたものもあります。

(出典元:「教育論の新常識 -格差・学力・政策・未来」松岡亮二 中央公論新社

 

2.住民全員の置かれた環境を想像することは誰にもできない

 教育の取り組みというのは、一義的にはその教育を受ける子ども等の幸せな人生につながることを目的としていることは、基本的に誰もが首肯するところだと思いますが、実際に各論に入りますと、経済的な観点や社会全体の観点などが付随してきて、育った環境の異なる私たちが考える方向性は、なかなか集約し得ません。

 

 特に教育の取り組みは、強い使命感や情熱を持った先人達が、その信念で切り拓いていかれた積み重ねで出来ており、それは、国民の代表者が自己の信念や情熱で教育政策を進めてきたことのみならず、特に私学教育において顕著であって、教育における自由や自治を尊重する精神は、そこからつながっていきます。

 しかし、個々人の課題感だけで、特に公(おおやけ)としての教育はうまくいくのでしょうか。 

 思いで切り拓くにも、そもそも、世界的に人口が多く、自国より小さい国は他にもいくつもあるこの日本の、住民一人ひとりの置かれた環境を想像することができる人間なんて一人も存在しないことなど、先述の松岡准教授は次のように言われています。

 教育格差という実態があるというデータを示されても、単に「感覚」として腑に落ちない人もいるかもしれません。一人ひとりが限られた時間の中で見聞きする実例数に限りがある以上、これは自然なことです。拙著で示したように、公立の小学校であっても、地域によって様々な差があります。親の大半が大卒で大学進学が前提となっている学校もあれば、そうではない学校も同じ日本社会に存在します。個人の経験が偏ったものであり得る以上、視界に入る範囲の実例で構築された感覚で社会全体を理解するのは難しいわけです。(中略)

 もし(日本の)教育をどうすべきという話であるなら、「個人の見聞に基づく実感」と「社会全体の実態」に乖離があり得る点を踏まえなければ、建設的な議論はできないはずです。(中略)

 繰り返しますが日本社会は個人で把握できるほど小さくありません

(出典元:「教育論の新常識-格差・学力・政策・未来」松岡亮二 中央公論新社

 こうしてみていきますと、客観的データに基づく政策の立案が大切ですし、そのデータに基づいて導き出されたものについては、自分の想像に基づく信念とずれていても、謙虚に受けとめ、その結論を尊重するような姿勢が、制度案を練る人、決定する立場の人をはじめ、社会の人たちみんなにとって大切なことなのではないかと思えます。

3.世論と専門性をどう考えるか

 次の話題は教育に限った話ではありませんが、お笑いコンビのロザンは、2021年9月27日にYouTubeで配信の「ロザンの楽屋」で、「『国民の声』とは何か」について二人で話し合っています。

 その中で、ロザンの宇治原さんは、京都大学名誉教授の佐伯啓思氏が福沢諭吉の文章を紹介していることを話しており、同様のそれは次の記事に記載がありました。

異論のススメ・スペシャ

 かつて福沢諭吉は「文明論之概略」のなかで次のようなことを書いていた。近年の日本政府は十分な成果をあげていない。政府の役人も行政府の中心人物もきわめて優秀なのに政府は成果をあげられない。その原因はどこにあるのか。その理由は、政府は「多勢」の「衆論」、つまり大衆世論に従うほかないからだ。ある政策がまずいとわかっていても世論に従うほかない。役人もすぐに衆論に追従してしまう。衆論がどのように形成されるのかはよくわからないが、衆論の向かうところ天下に敵なしであり、それは一国の政策を左右する力をもっている。だから、行政がうまくいかないのは、政府の役人の罪というより衆論の罪であり、まず衆論の非を正すことこそが天下の急務である、と。(以下略)

出典元:朝日新聞デジタル「民意が実現すれば政治はうまくいくか 福沢諭吉の懸念 佐伯啓思さん」2021年9月25日 17時00分

 これを皆さんはどう読まれるでしょうか。

 いわゆる大衆世論に沿って取り組みを進めることが国や自治体の仕事だというのは、基本的にその通りだと思います。

 一方で、ここで言われているように、なんでもかんでもみんなが言えばそれが正しい意見ではなく、それに精通した人にしか見えていない世界があることも否定できません。

 ロザンの菅さんは、それは「世論は一つなのか?」ということではないの?と言われていました。

 また、衆論の非を正すべしという点に関して、それは薄っすらおごりっぽいのではないかということも言われていました。

 以降の内容は、引用させていただいた話から離れますが、世論に関して経験則として実感することは「世論は日々変わる」ということです。

 昨今のコロナ対応の是非はその典型例のように思います。 

 一方で、これを言うと叱られそうですが、行政官も専門家もピンキリであって、それこそ十把ひとからげにはできません。

4.まとめ

 以前、私がある地域の住民の皆さんに、その地域での幼児教育や子育て支援の取り組みを説明し、ご意見・ご要望をお聞きする場がありました。

 そのとき、その場を企画運営していた、まちづくりコンサルタントの方が、「役所の人に要望をするときは、『向こうまでここに橋をかけてくれ』と具体の手段を言うのでなく、『向こうに渡れるようにしてくれ』と、その目的を伝えた方が、役所の人も、持っている知識経験から、こういうやり方があるとか一所懸命考える」というような話を住民の方々にしてくださいました。

 この話を思い出したのは、例えば先述の話のように多数の人が「この橋をかけてくれ」と言っているとしても、実は、この橋をかけることにこだわっている人は少数で、「向こう岸に渡れるようにしてくれたらよい」というのが本音の人が多数かもしれないということです。

 そこをきちんと把握せずに本意を見誤ると、予算が足りずにものすごく粗末な橋を架けて、使い勝手が悪く、かえって叱られるというような誰も望まない結末に行き着くことだってあり得ます。

 同様に、教育の取り組みを決めていくときに、「大多数がこの意見だ」と言われたとしても、それは抽象的な大枠の話であり、細部の議論になったとき、また違った意見が見えてくるかもしれません。

 

 また、別の側面の話ですが、以前、「ゆとり教育」という取り組みがありました。(例として示すだけで、その政策自体を今回批評するわけではありません。)

 ゆとり教育は「詰め込み教育はだめだから改善する」という論理展開で説明されたのですが、「詰め込み」から「ゆとり」というような純化した説明が、単純化した理解を生み、それで総論が集約されていくように思います。

 ですので、各論として以前の教育のどこどこは良かったけど、どこどこは悪かったみたいな具体的な内容は、世論としてすり合ってないままでも、単純化されたロジックの中で世論は集約され、一人ひとりがきちんと全容を理解させてもらえないまま、世論を形作る一翼を担ってしまう面もよく考えないといけないように思います。

 

 ここまでお読みいただきありがとうございました。(^^)/