自治体職員が書く“子育て支援・教育行政”

行政窓口で待機児童の家庭のお話をうかがったり、制度設計に奔走している者にしかわからないところを伝えたい、という思いで書いています。子どもの幸せ・親の幸せに幼児教育・保育制度はどう寄与していけるのか、一つひとつ制度を深掘りしていきます。

愛のある学問(教育)とは何だろう

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 小学校高学年の授業の一部で来年度から、教科ごとに担任を充てる「教科担任制」が導入されるということで、政府が来年度予算案で950人の教員の増員を決めたという報道がされています。

 年度末にかけて、国や自治体から来年度の取り組みが発表されていくことになりますが、「教育」については、自己や家族が受けてきた教育内容への満足・不満なども相まって、確固たる根拠の無いままでも、意見のいろいろ言いやすい領域です。

 そういう私も日々勉強中のコメントにはなりますが、前回は、教育に対していろいろな考え方があるという点に少しふれました。

kobe-kosodate.hatenablog.com

 今回は、それを受けて、そもそも「教育」についてどんなことが言われてきたのかをみていくことで、私自身、頭の整理ができればと思っています。

1 自己の独立、社会の自立

 教育・学問と言えば、明治の啓蒙家である福沢諭吉の「学問のすすめ」があまりにも有名ですね。

 福沢諭吉は、学問(=教育)のすすめは自由な国民のすすめであると考えていました。

 「学問のすすめ」では、誰もが聞く「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」に続けて「人の貧富貴賤は学ぶと学ばざるにあり」と、一人ひとりが精神面・生活面で自立するための学問をつよくすすめました

 次に「一身独立して一国独立する」として、自分の考えの持ちようや社会の維持・向上を、一人ひとりが他者に依存せず、学んで自立した人間になることこそが、一国独立の基礎だと訴えました。

 独立とは、自分にて自分の身を支配し、他に依りすがる心なきを言う。(中略)

 人々この独立の心なくしてただ他人の力に依りすがらんとのみせば、全国の人は皆依りすがる人のみにて、これを引受くる者はなかるべし。

(出典元:「学問のすすめ福沢諭吉 岩波文庫

2 人格の尊厳

 個人が自立し、人間としての尊厳を全うするという概念と、それが社会の礎になるという理論の組み立ては、いまの教育基本法にも受け継がれており、「教育の目的」として、次のように書かれています。

第1条

 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

教育基本法

 「人格の完成」とは、ドイツの哲学者カントの流れを汲む言葉とされています。

 カントは「汝の人格においても、あらゆる他者の人格においても、人間性を単なる手段としてではなく、つねに同時に目的として扱うように行為せよ」(『道徳形而上学原論』)と説きました。

 何かを得るための手段として人間性が位置付けられたり、またそれを高めたりするのではなく、人間性自体が人生の究極目的だから、人格の尊厳は尊重されるのだと示しました。

3 教育は一人ひとりの可能性を全面・十分に開花させるもの

 日本教育学会会長を務めるなどされた東京大学名誉教授の堀尾輝久氏も、求められる子どもの教育を次のように述べています。

 教育は、一人ひとりの子どもの能力の可能性を全面かつ十分に開花させるための意図的営みであり、教材を媒介として子どもの発達に照応した学習を指導し、発達を促す営みである。そしてそのことを通して社会の持続と発展をはかる社会的営みである。

(出典元:『教育入門』堀尾輝久 岩波新書

 ここまでの引用に一貫しているのは、「学び」は一人ひとりの発達を保障し、自身の尊厳を全うさせるとともに、自身がその一部でもある社会をよりよい方向にもっていくために大切なものだという点ではないでしょうか。

4 教育は人権保障の観点から進められるもの

 ところで、日本国憲法第26条第1項には「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」とあります。

 これは憲法第23条で「学問の自由は、これを保障する」と示された精神的自由権を前提に、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と明記された生存権を具体的に保障するため、教育を受ける権利を謳ったものです。

 したがって、教育に関する取り組みというのは、個々人が健やかに成長する基本的人権の保障の観点からすすめられるものだということであり、これは、それまでの大日本帝国憲法の下での教育制度が「教育は…国家生存のために臣民を国家的に養成するにあり」(小林歌吉『教育行政法』金港堂)とされていたものからの大きな転換を意味しています。

5 競争の道具としての我利我利の学力ではなく、社会を愛し育てる学力を

 では、先述の堀尾氏が仰るところの、子どもたちの発達促進を通じて「社会の持続と発展をはかる」というところは、どう読めばよいのでしょうか。

 昭和30年代に「村を捨てる学力、村を育てる学力」という概念を提唱した教育者の東井義雄氏は、相手を負かし、しかしいつかは負かされる、そんな競争の道具としての我利我利の学力ではなく、自らの住む地域や社会を愛し、地域(村)を育てる学力、そうした愛のある学問こそが、結果的にその子が町に出ようが村に残ろうが生き甲斐を持って人生を全う出来る糧となることを訴えられました。

 また、兵庫県立芸術文化観光専門職大学の学長であり、劇作家の平田オリザ氏は、自身が関わっている「豊岡の英語教育は、世界で活躍する人材、世界で闘う人材を育成するための教育ではない。豊岡そのものを国際化するための教育だ」と言われ、次のように述べています。

 いま文科省が進める「グローバル教育」は、二一世紀版の「村を捨てる学力」、いわば「国を捨てる学力」なのではないか。

 それは、言い換えれば、教室にいる四〇人のうちの三九人を犠牲にして、一人のユニクロシンガポール支店長を作るような教育だ。教育工学的に見ても効率が悪いし、そして獲得目標も低い。しかも残りの三九人はグローバル化から取り残され、あるいはそれを怨嗟し、偏狭なナショナリスト予備軍になっていく。誰のための、何のためのグローバル教育なのか。

(『22世紀を見る君たちへ これからを生きるための「練習問題」』平田オリザ 講談社現代新書

 さまざまな教育観があるのは当然であり、ご意見はさまざまだと思いますが、教育が進める「一人ひとりの発達保障」は、「生きやすい・住みやすい社会・人間関係づくり」と相互に結びつく視点が、重要と言えるのではないでしょうか。

 

 2021年も今日で終わりとなりました。

 と書いている時点で2022年が自分の身の上にも当たり前に訪れると思い込んでいますが、自分が経験する最後の年が、いつかおとずれることを思いますと、時間を大切に出来ることをしていかなければと思います。

 ここまでお読みいただきありがとうございました。(^^)/