自治体職員が書く“子育て支援・教育行政”

行政窓口で待機児童の家庭のお話をうかがったり、制度設計に奔走している者にしかわからないところを伝えたい、という思いで書いています。子どもの幸せ・親の幸せに幼児教育・保育制度はどう寄与していけるのか、一つひとつ制度を深掘りしていきます。

こどもの貧困について

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 以前にSNSで「『努力すれば結果はついてくる』というのは本当か」という質問をみました。

 仏教の「因縁」という考えでは、結果があるのは「原因(当人の行い)」と「縁(周辺環境)」があってのことだと言われますが、つくづく縁は大切だと感じます。

 「がんばればなんとかなるはずで、なんとかなっていないのはがんばっていないからだ」と言われても、またそうした態度で接せられても、たしかにそれは努力を重ねてきた当人にとっては間違いない事実ですが、言われている相手はその人と同じ武器を人生で持たされていないのかもしれません。

 いや、がんばるための武器どころか、がんばる環境も、がんばることができる心の土台を養う機会も無かった人はどうすればよいのか。

 これまでに、教育というのは発達保障の取り組みであることをみていきました。

kobe-kosodate.hatenablog.com

 今回は、子どもの貧困についてみていきます。

1.人によってとらえにくい「子どもの貧困」

 「子どもの貧困」ということが本格的に報道で取り上げられるようになったのは、東京都立大学教授の阿部彩氏の『子どもの貧困-日本の不公平を考える 』(岩波新書)が世に出た平成20年(2008年)頃からだと言われます。

 一方で、それまでも教育格差はあり、現在にも続いていることは、これまでの記事で紹介しました早稲田大学准教授の松岡亮二氏が『教育格差-階層・地域・学歴』で明らかにされています。

 わたしたちの目に映る多くのものは、この70年で大きく変わった。農業従事人口の大幅な減少に代表されるように産業構造も大きく転換し、人々の仕事は変わり、教育を長い年数受ける人も増えた。(中略)

 一方で、生まれ落ちた社会階層によって人生が制限されているという観点では、大きく変わってきたわけではない。親の社会階層が子に引き継がれる階層再生産の研究は、総じて、相対的な格差が多少の変容はあれ基本的には変わらず存在していることを示している。

(出典元:松岡亮二「教育格差-階層・地域・学歴」ちくま新書

 私たちは自分の経験や想像の範囲で教育を語ってしまいがちですが、子どもの貧困という課題についても同様で、同じ「コドモノヒンコン」でもその受けとめはかなり違います。

 兵庫県立芸術文化観光専門職大学の学長であり、劇作家の平田オリザは、『22世紀を見る君たちへ これからを生きるための「練習問題」』(講談社現代新書)で、進学意識の格差についてふれながら、次のように述べられています。

 もはや東京の都心部では、公立中学にも「多様性」は存在しない。(中略)

 (引用者追記:講義される大学の)授業で「文化による社会包摂」といった話をしても、頭で理解はできるが実感がわかないようだ。なにしろ、周囲に貧乏な家の子がいなかったのだから。(中略)

 「相対的貧困」は表面化しにくい。小学生くらいでは、その格差が子ども同士では理解できない。中学生になって、友だち同士で「おい、日曜日にスケート行こうぜ」となったときに、「いや、俺ちょっとやめとくわ」という子が周囲にいて、初めて貧困、格差は実感できる。

 こうしたことを一度も経験しないで多くの子どもたちが、大学生そして社会人になっていく。もちろん大多数の若者は、アルバイトなどの社会経験の中で少しずつ現実に直面するのだろう。しかし、バイト先の選択にさえ格差が見え隠れするのが現状だ。

(出典元:平田オリザ『22世紀を見る君たちへ これからを生きるための「練習問題」』講談社現代新書

 「私の家はふつうだとおもう」と捉えている各人の「ふつう」が、自分と周囲の環境によって異なります。

 「生まれ」によって児童は異なる「ふつう」を生きる。家に本がたくさんあり、親に大学進学を期待され、習い事や通塾することが「ふつう」な子もいれば、そうでない子もいる。同様に、公立であっても各小学校には異なる「ふつう」がある。近所の「みんな」に合わせても、それが都道府県や日本全体の平均とは限らない。(中略)

 親の「意図的な養育」によって構造化された時間を日常として認知・非認知能力を向上させたり、両親大卒層の割合が高く、多くが通塾や長時間学習する「みんな」に合わせていたりすれば、大幅なギアチェンジをせずとも学歴獲得競争で先頭集団を維持することができるだろう。

 一方、長らく学校以外で構造化された時間を過ごさず、同じぐらい親の介入度合いの少ない生活を送っている「みんな」に合わせて「ふつう」な日々を送っていた児童は、中学校に入ってから陰に陽に「身の程」を「公式」に通知されることになる。

(出典元:松岡亮二「教育格差-階層・地域・学歴」ちくま新書

2.経済的資本の欠如が、健康・教育面の欠如やつながりの欠如につながっている

 大阪府立大学教授の山野則子氏は「日本では、貧困を「飢え」や「住宅の欠如」など「絶対的貧困」レベルで理解する傾向があるが、国際的には、貧困は相対的に把握されるべきものと理解されている」こと、そして「等価可処分所得が全体の中央値の半分に満たない「相対的貧困」状態の子どもは、1990年代半ばから増加傾向にあり、2012年に16.3%つまり6人に1人となった」現実を紹介しています。(『学校プラットフォーム』有斐閣

 イギリスの社会学者タウンゼントの定義を元にChild Poverty Action Group(CPAG)が示している、①所得や資産など経済的資本(capital)の欠如、②健康や教育など人的資本(human capital)の欠如、③つながりやネットワークなど社会関係資本(social capital)の欠如、の3つの資本の欠如・欠落を基本的な枠組みとしてとらえられよう。この視点で見ると、経済的資本の欠如が、社会的なつながりの欠如を生み、相乗作用となる

(出典元:山野則子「学校プラットフォーム」有斐閣

 子どもの貧困は、家庭の経済的な問題ですが、それは子どもの健康面に直接関わります。食事の栄養面であるとか、十分な医療を受けさせることができずに我慢せざるを得ない状況につながります。

 また、文化的な経験(いわゆる知的刺激)の欠如につながります。

 家庭や子ども自身の持っている本の冊数や通塾率、博物館・美術館などの文化施設を見学した回数での統計で、そうした文化的貧困の状況が指摘されています。

 ただ、通塾していようが、していまいが、家庭(親)の社会経済的背景(親が高学歴かどうかなど)が、子どもへの日々の教育的関わりや、豊富な語彙での言葉かけの差につながり、子どもの学力の差につながっているという指摘もあります。

 回数だけの問題でなく、家庭の経済格差や社会上の格差が、親や子どもの「本人なりのがんばり」とは違う次元で学力に作用しているのです。

3.愛着の貧困

 それら健康面、知的刺激の問題は前提としつつ、子供の貧困と教育政策を専門に執筆・講演活動を行っているポール・タフ氏は、経済的に不利な条件下にある子どもに関わる問題として、「神経科学者や心理学者、その他の研究者たちは、逆境のなかで育つ子供たちの問題についてべつの原因に焦点を合わせはじめており、私たちも不利な状況、有利な状況についての考え方を修正する必要がある」として、次のように主張しています。

 研修者らの結論によれば、環境による影響のなかで子供たちの発達を最も左右するのは、ストレスなのだ。(中略)

 感情面で見ると、幼い時期に慢性的なストレスを受けた子供は(略)失望や怒りへの反応を抑えることに困難を覚えるようになる。小さな挫折が圧倒的な敗北のように感じられ、ほんのすこし軽く扱われたように感じただけでも深刻な対立関係に陥る。(中略)

 この実行機能がきちんと発達していないと、複雑な指示に集中できず、学校生活にいつも不満を抱くようになってしまう。(中略)

 世話をする人が子供のもつれた感情に鋭敏に、注意深く反応するなら、子供はひどく不快な感情にも自分でうまく対処できるようになる。(中略)親のほんの小さな配慮が、非常に深いところからーきわめて重要な遺伝情報に関わる部分まで掘りさげるようにしてー子供の発達を助けるのだ。

(出典元:ポール・タフ「私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み、格差に挑む」英治出版

 ただでさえ子育ては戸惑いやイライラが募るもので、経済的に苦しい状況では、それが輪をかけて覆いかぶさってきます。

 

 本来的に、子どもに対する愛情レベルが、家庭の社会経済的背景で変わるのではありません。ですので、愛情差ではなく、家庭の社会経済的状況が、現在の社会制度に適応する力を身に着けさせる上での子育て実践の差として生まれている側面があります。

 

 一方で、愛着は後天的なものです。母性も父性もはじめからあるものではありません。まったく経済面や精神面で余裕がない親が、わが子への愛着の芽生えが不足しているとして、誰がそれを責めることができるでしょうか。

(愛着形成の関係は、以下の記事にもふれています。)

kobe-kosodate.hatenablog.com

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4.まとめ

 神戸市の私立保育園の園長であった牧田稔氏は、神戸市で長く児童福祉活動に挺身された経験から次のように警鐘されています。

 保育現場にいると、子どもの貧困は、生活保護を受けているとか、母子家庭から経済的貧困が生じることは事実であるが、もう一つの子どもの貧困は、開発途上国に比較して日本のように経済的に豊かであっても、私たちの社会は、子どもが成長していく上での親子関係の貧困、養育機能・教育力・家庭力の貧困、食体験の貧困、健康管理の貧困、虐待・育児放棄等による子どもの情緒的・精神的貧困、生活・文化体験の貧困、自然環境の貧困等による影響が一般化してきたことも承知しなければなりません。これらの貧困は、日本の社会病理だと思います。

 つまり、普通の家庭での子どもの幸せや成長が、子育て環境・家庭環境の貧困や地域社会や生活環境の貧困、都市化による自然環境の貧困等によって阻害され、これらの貧困の要因が、子どもの成長に深く影響していることを認識しなければなりません。

(出典元:牧田 稔「ほいくの窓 保育現場から ~賀川豊彦献身100年を覚えて~」)

 国や自治体は、義務教育制度のほか、さまざまな取り組みで、「教育機会の保障」を進めていますが、先述の松岡准教授も先著の中で「「制度上は可能」であるとか「誰にでも機会が開かれている」という言葉は「(可能なのだから後は)本人(の能力と努力)次第」というメッセージを含意する」と、その建前の急所を突いています。(『教育格差 ー階層・地域・学歴』ちくま新書

 乳幼児期からの子育て支援は、保健的支援に加え、親子が愛着を深められる育児支援的要素も非常に重要であり、また、こうした子どもたちの課題をよく理解して、保育所や幼稚園、小学校以降の教師・保育者が子どもの保育や教育にあたっていくことが、不可欠であることが見えてきます。

 

 ここまで読んでいただきありがとうございました。(^^)/