自治体職員が書く“子育て支援・教育行政”

行政窓口で待機児童の家庭のお話をうかがったり、制度設計に奔走している者にしかわからないところを伝えたい、という思いで書いています。子どもの幸せ・親の幸せに幼児教育・保育制度はどう寄与していけるのか、一つひとつ制度を深掘りしていきます。

「教育の本来の形」について

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 コロナ禍で少しも気の抜けない中、受験シーズンに突入しました。

 私は、大学受験で、泊まらなくてもいけそうな距離なのに、ビジネスホテルに泊まって受験したいと言い出し、当日の朝にホテルの朝食バイキングに興奮して、牛乳とオレンジジュースとグレープフルーツジュースを全部飲んで吐き気が止まらなくなり、受験する大学の保健室に駆け込み、試験時間に遅れた思い出があります。

 受験生の皆さんは、そんなことにならないよう、どうか体に気を付けて、乗り切っていただきたいなと思います。

 

 よく学校教育の問題点が議論されるとき「結局は小・中・高校の勉強の先にあるところの大学受験が変わらないと何も変わらないよ」という意見を聞きます。

 学習は大学に入るところで終わるものではなく、大学は「大いに学ぶ」と書きますので、大学でたくさん学ぶ人も多いのでしょう。 私は、残念ながらその貴重な機会をいろいろなことに悩むことに費やし、そのときの学習ストックがありませんので、今たくさん勉強しているのかなあと思っています。

 今日は、今までと少し毛色は違うかもしれませんが、子どもの時期にこだわらず教育というものをみていきたいと思います。

1. 生涯にわたって学ぶということ

 教育を受ける権利(学習権)が保障されるべきは、子ども(学齢期)に限ったことではありません。

 「教育基本法」には、「生涯学習の理念」として次の条文があります。

第3条

 国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。

(教育基本法)

 別の記事でもご紹介した東京大学名誉教授の堀尾輝久氏も「ことに変動のはげしい現代社会では、教育は制度化された学校に閉じ込められるのではなく、『あらゆる機会、あらゆる場所』において、すなわちその生涯を通していつでも、どこででも行われるべき」であるとしています。

 

 誰一人取り残さない(leave no one behind)持続可能でよりよい社会の実現を目指す世界共通の目標として、2015年の国連サミットで、「持続可能な開発のための2030アジェンダ」が全加盟国によって合意されました。

 その中で掲げられたSDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)の目標4(教育)にも、「すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し、生涯学習の機会を促進する」と謳われています。

 

2. 「生きる力」とは「学び続ける力」「成長し続ける力」

 7人の識者の主張を『生きる力ってなんですか?』にまとめられた、おおたとしまさ氏は、本著で次のように述べています。

 時代によって、生きていくために必要なスキルは変わります。 しかもその変化は現在加速度的に速くなってきています。 つまり、未来予測は大変困難。 「生きるためにこれとこれが必要だ」と教えてもらうことでは「生きる力」は身に付かないのではないかと思います。 その場その場で自分が生きていくうえで必要なものを自分で見極めて、どうやったらそれを手にすることができるかを考え、そのための努力を続けることができる力こそが「生きる力」の正体であるといえるのではないでしょうか。 学び続ける力、成長し続ける力と言ってもいいかもしれません。

(出典元:『生きる力ってなんですか?』おおたとしまさ 日経BP社)

 

 先日、幼稚園の園長先生に「早期教育をものすごくがんばってやらせていっても、その勢いで大人になるまでついていけるのは一握りの子どもたちで、後の子どもは疲れてしまって、逆にトラウマになることさえある」というようなお話をお聞きしました。

 生涯にわたって前向きに知識やスキルを身につけたい心を養い、他人にゆだねたり、他人への妬みや羨ましさに心を縛られたりせず、自分の頭で考えた道を自分の足で歩んでいけるよう、小さいときからの育ちや学びをずっとつないでいくことが大事なのだということを、生涯学習という言葉は教えてくれているのかもしれません。

 

3. 「自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利」

 1985年にユネスコの国際成人教育会議で発表した「学習権宣言」では、学習権について、読み書きの権利等と並べて、「問い続け、深く考える権利」「想像し、創造する権利」「自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利」 などが掲げられています。

 学習権とは「生涯を通して探求心を失わず、問い続け、分析し、熟考する権利であり、新しい世界を切り拓き、自ら歴史をつづる権利」と、先述の堀尾輝久氏も『教育入門』で言われています。

 

 歴史と言われると、私はガンダム世代ですので、シャアの「君は自分の手で、歴史の歯車を回してみたくないのか」をとっさに思い出してしまったのですが。。。

 ガンダムパワーワード 第117回「君は自分の手で、歴史の歯車を回してみたくないのか」 | GUNDAM.INFO

 

 少し、脱線しましたが、教育の話に戻ると、むしろこの言葉では、「歴史をつづる」のくだりの前の、「自分自身の世界を読みとり」に真髄があるような気がします。

 「自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利」とは、日本語訳の時点ですごい言葉ですが、原文では、「the right to read one's own world and to write history」で、「read」が「読みとる」と訳されているわけです。

 私は英語は苦手でしたので、あくまで印象論になりますが、この「read」は「読解」であり、「読」んで理「解」する。 「その言葉に込めた意味を読みとる、解(わか)る」ということだと思います。

 いわば、「自身の人生の意義(生きる目的)が分かり、それを成就する権利」というところでしょうか。

 これは、完全にイコール生涯学習だと思うとともに、生きることは学ぶことだというスタンスからしか出ない言葉だということがみえてきます。

 

4. 私塾的教育関係が、教育本来の形

 これまで、何度か教育・学習を「教育を受けられる権利」や「学習できる権利」というように、「権利」の観点を大切にみてきました。

 教育を受ける=学習するという行為は、受け身の話というよりも、もっと能動的な感覚があります。

 教育の形態には、家庭教育はもとより、学校だけでなく塾をはじめとしてさまざまな提供体があるほか、学習機会という意味では、学習する本人の意識次第で、有形無形から学ぶ無限といってよいほどのチャンスがあるのではないでしょうか。

 

 教育学者で著名な明治大学教授の斎藤孝氏は「教育の本来の形は、教師が店を開き、そこに生徒側が身銭を切って教えを受ける、という関係だ」とし、吉田松陰松下村塾緒方洪庵適塾を紹介して、「学ぶ側が自分で先生を選び、自らの意思で通ってくる」私塾的教育関係が、教育本来の形であると明らかにしています。

 そもそも塾は、学校と違っていつでもやめることのできるものだ。 自分自身の将来を考えて塾に通う判断を下す。 そうした判断をしっかりとできる子どもは伸びていく。 (略)

 お金を直接もらって教えている、という関係は、教育に真剣さをもたらす。 学校教育では、お金を生徒側からもらっているという感覚を持ちにくい。 公立学校では教育費は税金でまかなわれているので、なおさらだ。 (略)

 教育の成果をしっかりと出さなければいけない、という切迫感は、教育にとってマイナスの要因にはならない。 充実した教育内容と人間的なコミュニケーション、この二つを同時に味わうことができるのが、本来の塾の姿である。

(出典元:『教育力』斎藤孝 岩波新書

 

5. 学校はひとが生まれる以前からそこにあるのではない

 とはいえ、教育機会を均等に確保するために公教育として学校制度があり、間違いなく受けられるように義務教育制度の枠組みで校区が割り当てられ、子どもたちはそこに通っています。

 

 しかし、これとて学校より先に子どもがいて、その子どもの学習権があるわけです。

 学校はひとが生まれる以前からそこにあって、子どもが学齢期になればそこにやらねばならない場所だというのではなく、子育てと教育の責任はまず自分たち両親にあるという自覚をもち、その上で自分たちではできない専門的なことがあり、子どもたちに対して集団的になされたほうがより有効なものがあるという認識に支えられて、はじめて学校は子どもにとっても親にとっても、必要なものとなるのです。

(出典元:『教育入門』堀尾輝久 岩波新書

 

 孟母三遷ではないですが、昨今は「教育移住」という言葉も自然に聞くようになりました。

 子どもや保護者に選ばれる質の向上、指導や支援の専門性に裏付けられた信頼感が求められていると言えるのではないでしょうか。

 

 ここまでお読みいただきありがとうございました。 (^^)/