自治体職員が書く“子育て支援・教育行政”

行政窓口で待機児童の家庭のお話をうかがったり、制度設計に奔走している者にしかわからないところを伝えたい、という思いで書いています。子どもの幸せ・親の幸せに幼児教育・保育制度はどう寄与していけるのか、一つひとつ制度を深掘りしていきます。

教育の取り組みを決めるときに拠りどころとする「専門性、思いや印象、世論」について

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 国や自治体の教育政策は行きあたりばったりだと言われることがあり、それは教育に限ったことではありません。

 ただ、教育には皆さん一家言あり、しかも本人の経験に基づく確固たる自信のもとに、保護者も、地域住民も、その代表も、学校関係者も、私を含めた職員も発言し、それが対話として成立しなかったとき、時として誰も望んでいなかったのではないかという結末に落着しかねない危うさを認識し、回避しなければなりません。

 今回は、特に公教育の取り組みを考えるときの拠り所をどうとらえるかについて、さまざまなご意見があるかと思いますが、少しみていきたいと思います。

 

 以下の記事もお時間がありましたらお読みいただければ幸いです。

kobe-kosodate.hatenablog.com

 

1.教育改革は思いつきや印象論が色濃く出ているのか

 いろいろな新しい教育の動きが始まることがあります。

 たとえば、「GIGAスクール」はコロナ禍を踏まえて当初の予定より前倒しで推進されています。

 こうした取り組みはどのように方向づけされていくのでしょうか。

 著名なフリージャーナリストの池上彰氏は、日本の教育は思い込みや印象論で進められているとして、次のように言われています。

 「教育再生」を議論している「教育再生実行会議」にしても、日本の教育全般について議論する「中央教育審議会」にしても、企業経営者や元スポーツ選手といった教育の専門家ではない人たちもメンバーに入っています。人選は、そのときどきに行われますから、継続性もありません。

 専門家でもなく、継続性もない「識者」と呼ばれる人たちによって、それぞれの印象や思い込みで、ああでもない、こうでもないと議論して教育改革案が決まってきた。そんな歴史があります。

(出典元:「池上彰の『日本の教育』がよくわかる本」池上彰 PHP文庫)

 また、早稲田大学准教授の松岡亮二氏は、「GIGAスクール構想」や、「9月入学論」、「大学無償化法」、「教員免許更新制」などの政策検討・決定における問題点を、研究者や行政官の論により明示し、次のように言われています。

 日本の教育改革の多くは「凡庸な思いつき」でできているといえます。(中略)

 

 国の制度というと専門家集団によって熟考された精緻な設計を期待したいところですが、思いつきの政策論に基づいていることは残念ながら珍しくありません。新型コロナ禍への対応としてメディアを賑わせた入学・始業時期を四月から九月に後ろ倒しするいわゆる「九月入学論」はその最たる例の一つといえるでしょう。(中略)

 

 「九月入学論」のように「思いつき」と言えるような法案のすべてが頓挫しているわけではなく、すでに制度化されたものもあります。

(出典元:「教育論の新常識 -格差・学力・政策・未来」松岡亮二 中央公論新社

 

2.住民全員の置かれた環境を想像することは誰にもできない

 教育の取り組みというのは、一義的にはその教育を受ける子ども等の幸せな人生につながることを目的としていることは、基本的に誰もが首肯するところだと思いますが、実際に各論に入りますと、経済的な観点や社会全体の観点などが付随してきて、育った環境の異なる私たちが考える方向性は、なかなか集約し得ません。

 

 特に教育の取り組みは、強い使命感や情熱を持った先人達が、その信念で切り拓いていかれた積み重ねで出来ており、それは、国民の代表者が自己の信念や情熱で教育政策を進めてきたことのみならず、特に私学教育において顕著であって、教育における自由や自治を尊重する精神は、そこからつながっていきます。

 しかし、個々人の課題感だけで、特に公(おおやけ)としての教育はうまくいくのでしょうか。 

 思いで切り拓くにも、そもそも、世界的に人口が多く、自国より小さい国は他にもいくつもあるこの日本の、住民一人ひとりの置かれた環境を想像することができる人間なんて一人も存在しないことなど、先述の松岡准教授は次のように言われています。

 教育格差という実態があるというデータを示されても、単に「感覚」として腑に落ちない人もいるかもしれません。一人ひとりが限られた時間の中で見聞きする実例数に限りがある以上、これは自然なことです。拙著で示したように、公立の小学校であっても、地域によって様々な差があります。親の大半が大卒で大学進学が前提となっている学校もあれば、そうではない学校も同じ日本社会に存在します。個人の経験が偏ったものであり得る以上、視界に入る範囲の実例で構築された感覚で社会全体を理解するのは難しいわけです。(中略)

 もし(日本の)教育をどうすべきという話であるなら、「個人の見聞に基づく実感」と「社会全体の実態」に乖離があり得る点を踏まえなければ、建設的な議論はできないはずです。(中略)

 繰り返しますが日本社会は個人で把握できるほど小さくありません

(出典元:「教育論の新常識-格差・学力・政策・未来」松岡亮二 中央公論新社

 こうしてみていきますと、客観的データに基づく政策の立案が大切ですし、そのデータに基づいて導き出されたものについては、自分の想像に基づく信念とずれていても、謙虚に受けとめ、その結論を尊重するような姿勢が、制度案を練る人、決定する立場の人をはじめ、社会の人たちみんなにとって大切なことなのではないかと思えます。

3.世論と専門性をどう考えるか

 次の話題は教育に限った話ではありませんが、お笑いコンビのロザンは、2021年9月27日にYouTubeで配信の「ロザンの楽屋」で、「『国民の声』とは何か」について二人で話し合っています。

 その中で、ロザンの宇治原さんは、京都大学名誉教授の佐伯啓思氏が福沢諭吉の文章を紹介していることを話しており、同様のそれは次の記事に記載がありました。

異論のススメ・スペシャ

 かつて福沢諭吉は「文明論之概略」のなかで次のようなことを書いていた。近年の日本政府は十分な成果をあげていない。政府の役人も行政府の中心人物もきわめて優秀なのに政府は成果をあげられない。その原因はどこにあるのか。その理由は、政府は「多勢」の「衆論」、つまり大衆世論に従うほかないからだ。ある政策がまずいとわかっていても世論に従うほかない。役人もすぐに衆論に追従してしまう。衆論がどのように形成されるのかはよくわからないが、衆論の向かうところ天下に敵なしであり、それは一国の政策を左右する力をもっている。だから、行政がうまくいかないのは、政府の役人の罪というより衆論の罪であり、まず衆論の非を正すことこそが天下の急務である、と。(以下略)

出典元:朝日新聞デジタル「民意が実現すれば政治はうまくいくか 福沢諭吉の懸念 佐伯啓思さん」2021年9月25日 17時00分

 これを皆さんはどう読まれるでしょうか。

 いわゆる大衆世論に沿って取り組みを進めることが国や自治体の仕事だというのは、基本的にその通りだと思います。

 一方で、ここで言われているように、なんでもかんでもみんなが言えばそれが正しい意見ではなく、それに精通した人にしか見えていない世界があることも否定できません。

 ロザンの菅さんは、それは「世論は一つなのか?」ということではないの?と言われていました。

 また、衆論の非を正すべしという点に関して、それは薄っすらおごりっぽいのではないかということも言われていました。

 以降の内容は、引用させていただいた話から離れますが、世論に関して経験則として実感することは「世論は日々変わる」ということです。

 昨今のコロナ対応の是非はその典型例のように思います。 

 一方で、これを言うと叱られそうですが、行政官も専門家もピンキリであって、それこそ十把ひとからげにはできません。

4.まとめ

 以前、私がある地域の住民の皆さんに、その地域での幼児教育や子育て支援の取り組みを説明し、ご意見・ご要望をお聞きする場がありました。

 そのとき、その場を企画運営していた、まちづくりコンサルタントの方が、「役所の人に要望をするときは、『向こうまでここに橋をかけてくれ』と具体の手段を言うのでなく、『向こうに渡れるようにしてくれ』と、その目的を伝えた方が、役所の人も、持っている知識経験から、こういうやり方があるとか一所懸命考える」というような話を住民の方々にしてくださいました。

 この話を思い出したのは、例えば先述の話のように多数の人が「この橋をかけてくれ」と言っているとしても、実は、この橋をかけることにこだわっている人は少数で、「向こう岸に渡れるようにしてくれたらよい」というのが本音の人が多数かもしれないということです。

 そこをきちんと把握せずに本意を見誤ると、予算が足りずにものすごく粗末な橋を架けて、使い勝手が悪く、かえって叱られるというような誰も望まない結末に行き着くことだってあり得ます。

 同様に、教育の取り組みを決めていくときに、「大多数がこの意見だ」と言われたとしても、それは抽象的な大枠の話であり、細部の議論になったとき、また違った意見が見えてくるかもしれません。

 

 また、別の側面の話ですが、以前、「ゆとり教育」という取り組みがありました。(例として示すだけで、その政策自体を今回批評するわけではありません。)

 ゆとり教育は「詰め込み教育はだめだから改善する」という論理展開で説明されたのですが、「詰め込み」から「ゆとり」というような純化した説明が、単純化した理解を生み、それで総論が集約されていくように思います。

 ですので、各論として以前の教育のどこどこは良かったけど、どこどこは悪かったみたいな具体的な内容は、世論としてすり合ってないままでも、単純化されたロジックの中で世論は集約され、一人ひとりがきちんと全容を理解させてもらえないまま、世論を形作る一翼を担ってしまう面もよく考えないといけないように思います。

 

 ここまでお読みいただきありがとうございました。(^^)/

学習における金銭の動機付けについて

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 令和4年が始まりましたが、年度でみると令和3年度も大詰めです。

 各自治体では、令和4年度の予算を決める議会が2~3月にあり、それに向けて、来年度に何を打ち出すか、推進するかの検討がほぼ決まっていたり、あるいは大詰めの段階だと思います。

 

 往時は、何か目玉施策はないかと上司に言われ、目立つ打ち出し策を企画できていないと「なにか玉は無いのか。考えろ」と言われました。

 今の私は、無理に目玉施策を作ることは無用で必要な取り組みをやれば良い、ただしスピード感を持ってやるようにと上司に言われています。

 以前は新規施策が思いつかないと「これって面白い視点だよね」と耳目を引きそうな思いつきが、ともすればそのまま実施まで進んでしまう危うさもあったように感じますし、今もその点は気をつけないといけないと思います。

 

 前置きが長くなりました。

 この話題をしたのは、教育や保育の施策形成において大事な点だと思うからですが、だいぶ以前にこういうことがありました。

 何かの子どもへのカード発行だったかを推進するために何をするかが職場で話題になったときに、子どもが本を読んだ冊数分だけポイントを付与したら良いのではないかという意見がでました。

 まあ、それは単なる意見出しの場であって本気で検討していったわけではないのですが、私はそれはなんか違うだろうと思い、その当時反対の意見をしましたが、そのとき、どういう理由で「違うだろう」と思ったのか、言語化できませんでした。

 しかし、現に例えばアメリカの学校では、学力向上に金銭的インセンティブを設定している例も増えていると聞きます。

 今回は、お金(やポイントなど換金できるもの)で学習を奨励することについて見ていきます。

1.学習に金銭的報酬をつけると効果はあるのか

 対象が子どもに限らず大人に対しても何かをさせる動機づけとして、「それをやってくれたら、これをあげるよ」とするのは、広く浸透しています。

 人間は欲(食べたい、寝たい、楽したい、儲けたい、目立ちたい、モテたい、カッコよくみられたい などなど)が行動の源泉になるものですので、この欲求を刺激すれば一般に人は動くものだということです。

 モチベーションアップのための見返りは、お金やモノが一般的になりますが、表彰するとか、みんなの前で褒められる機会を用意するなどもあります。

 なお、うつなどの心理をみていく中で、最も人を動かす、あるいは動かないようにさせるのは「うらみ」だということを読んだことがあり、これは非常に納得するところですが、今回は話がずれますので、また機会があれば取り上げたいと思います。

 今回は、考えやすい例として金銭的報酬を学習的な取り組みに取り入れる場合を見ていきます。

 大人の世界でも、仕事の出来を給料やボーナスに反映させることでモチベーションを上げる仕組みにしている会社が多く見られます。

 子供に対しても、ある程度のお金をかければ、大人が望むような子供の行動変化(成果)につながるのであれば、予算のある国・自治体や、お金のある親とすれば、楽で効果的な取り組みだと目に映るでしょう。

2.インセンティブ・プログラムの結果

 では、それがどのような結果となっているかをみていきたいと思います。

 子供の貧困と教育政策を専門に多数の執筆・講演活動を行っているポール・タフ氏は、ハーバード大学の経済学者であるローランド・フライヤー氏が、貧困地域のあるアメリカの都市の公立学校生徒を対象とした報奨制度の実験結果を紹介しています。

 PTAの会合に出席した保護者、本を読んだ生徒、生徒のテストの点数をあげた教師らに報奨金を支払った。もっと一所懸命に勉強するようにと、子供たちにインセンティブとして携帯電話を与えた。(中略)

 しかしながら、このインセンティブ・プログラムには、ほぼすべてのケースでまったく効果がなかった。(中略)

 シカゴ、ダラス、ニューヨークの3市では、2007年から2009年までのあいだに総額940万ドルの現金を2万7000人の生徒にインセンティブとして配った。ダラスでは読書に対して、ニューヨークではテストの得点に対して、シカゴでは教科の成績に対して報奨を与えた。またもや効果はなかった。「実験の結果は驚くべきものだった。生徒の成績に関する金銭的なインセンティブの効果は、どの市でも統計的にゼロだった」

(出典元:『私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み、格差に挑む』ポール・タフ 英治出版株式会社)

 この結果の評価は、基本的に事実のようですが、次のように解説している例も見られます。

 フライヤーは(略)金銭的インセンティブは、スラム地区の学校に通う子供にやる気を起こさせる一助になると信じている。(中略)

 こうした現金の支払いはさまざまな結果を生んだ。ニューヨークシティーでは、子供にお金を払ってテストの点数を上げようとしたが、学業成績はまったく向上しなかった。シカゴでは、好成績を収めた生徒に現金を与えたものの、出席率は改善したが共通テストでは何の成果も出なかった。ワシントンDCでは、報酬が一部の生徒(ヒスパニック、少年、行動に問題のある生徒)の読解力スコアの向上に一役買った現金の効果が最も大きかったのが、ダラスの2年生の場合だ。本を一冊読むたびに2ドルをもらった子供たちは、その年の終わりには、読解力スコアを向上させていたのだ。

(出典元:『それをお金で買いますか 市場主義の限界』マイケル・サンデル ハヤカワ文庫)

 では、他の例はどうでしょうか。

 ロチェスター大学の心理学者であるエドワード・デジ氏は、カーネギーメロン大学大学院で心理学を研究していた当時、キューブ型のパズルを組み立てることを2つのグループに違った頼み方をしました。

 1日目は、どちらのグループにも報酬を支払いませんでした。

 2日目・3日目も、一方のグループにはそのまま報酬の話をしませんでしたが、もう一方のグループに対しては、2日目に報酬を支払ったのちに3日目は資金が底をついたと言って報酬は無いと告げました

 するとどうなったか。

 3日を通じていちども報酬を受けなかったグループは、だんだんパズルに夢中になった。(中略)日を追うごとに、パズルを完成させるまでの時間を短縮させていった。(中略)学生たちは休憩時間もパズルをつづけ、時間を計ったり観察の対象になったりしていない(と学生たちは思っている)あいだもパズルをうまく完成させようとしていた。

 けれども2日めに報酬を受けたのち、3日めには受けなかったグループは、異なる行動を取った。2日めには、予想どおり、学生たちは小遣いを稼ごうとしてより懸命に、より早くパズルを完成させた。けれども3日め、デジがちょっと席を外すと、彼らはパズルに見向きもしなくなった。しかも支払いを受けた日より取り組みに熱意がなくなっただけでなく、1日め(支払いのことなど考えず、本能的にパズルを楽しんでいただけの初日)と比べても意欲が下がっていた。いい換えれば、わくわくするパズル遊びが報酬の導入によって「仕事」になってしまったのだ。仕事となれば、支払いを受けられないのにやりたがる人はいない。

(出典元:『私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み、格差に挑む』ポール・タフ 英治出版株式会社)

3.報酬はその行為を「稼ぐ手段化」し、手抜きにつながる

 これらをどう読めばよいのでしょうか。

 「仕事」という言葉には、能動的なものも受動的なものもありますが、ここでは、「生活の糧を得るためにやらざるを得ない」という意味合いで「仕事」の言葉を使っていると読めます。

 金銭的なごほうびをつけると、その行為が「稼ぐ手段化」していることが見えてきます。

 そうなると、自分の学生アルバイト時代を思い出すようで、いささか苦しいですが、報酬があるときだけ頑張るという姿勢になったり、手抜きしながらノルマだけ達成しようとしたり、いわゆる手抜きにつながっているようです。

 それに加え「稼ぐ手段化」は、その行為をやることよりも、その後の報酬が目的になりますので、その行為(今回ならパズル)自体の魅力(面白さを理解する力)を下げていることも分かります。

 そして、魅力が下がる(面白味が分からない)と、やらされている感覚が強くなります。

4.「稼ぐ手段化」は、その行為自体の魅力を下げて「やらされ感」につながる

 ここで思い出すのは、マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』です。

 

 トムがいたずらをした罰として、大きな壁のペンキ塗りをするように言いつけられます。嫌々やりながら友達に手伝いを頼んでも、誰も見向きもしないわけです。

 そこでトムは閃いて、とても楽しそうに壁塗りをはじめるのです。それが友達にはとても面白しそうに見えて、自分もやらせてくれないか、このリンゴをあげるからと友達が言ってくるようになります。最後はトムが「しょうがないなー、じゃあ、やらせてあげるよ」と言って、友達からたくさんのプレゼントをもらいながら、壁塗りまでさせることに成功するという話です。

 いろいろな教訓が得られる話ではありますが、今回の話に関連して振り返ると、物事に取り組むときは、「やらされている」気持ちで物事を受けとめる場合と、「自分からやりたい」気持ちで物事を受けとめる場合とがあることが分かります。

5.「やらされ感」ではなく、「自分が選んだ行為化」できるか

 先ほどに続き、ポール・タフ氏は、前述のエドワード・デジ氏と、同様にロチェスター大学の心理学者であるリチャード・ライアンの2人の論文を紹介している中で、次のように書かれています。

 さらに2人は、人が求める3つの鍵を見きわめたー「有能感」「自律性」「関係性(人とのつながり)」である。そしてこの3つが満たされるときにかぎり、人は内発的動機づけを維持できると述べた。

 デジとライアンは数十年をかけて複数の実験をおこない、外的な報酬(フライヤーの研究で中心となった物質的なインセンティブは、長期にわたるプロジェクトへの動機づけとしては効果がなく、多くの場合、むしろ逆効果でさえあることを示した。

(出典元:『私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み、格差に挑む』ポール・タフ 英治出版株式会社)

 この言及後、ここに出てくる「自律性」を子どもたちが実感してモチベーションにつながるのは、管理や強制されていると感じずに自分でこの行為を選択していると実感している状態だと書かれています。

 

 とはいえ、現実問題として、社会のだいたいのことは、完全な自発的な行為は少なく、他者から「やったほうがいいよ」「やりなさい」と言われたり、情報が耳から入ったりして行動に移すものかもしれません。

 それを「そうだね。それを聞いて私もやった方がいいと思うからやってみるよ」と、心の中で、「それは結果的に自分が選んだ道だ」と消化・転換できる力もとても大事だと思えます。

 そう考えていくと、単にインセンティブは学習には効果が薄いというのではなく、自分で選んだ行為を頑張りぬくときに、さらなる努力に向けてご褒美を設定するのは、効果が有るケースも多々あるのではないかとも思えます。

6.行為を金額に変換することは、その行為の価値を下げる

 最後に、成果につながるか否か以外の、別の観点でも見てみます。

 NHKハーバード白熱教室」で日本でも著名なハーバード大学教授のマイケル・サンデル氏は、あらゆるものが売買される時代になってきている現在、そもそもお金で買えないような価値あるモノや行為に値段が付けられていくことは、そのモノや行為のかけがえのなさ・大切さを貶めるものであると警鐘し、お金では買えない道徳的・市民的善を問いかけ、次のように述べています。

 子供が本を読むたびにお金を払えば、子供はもっと本を読むかもしれない。だがこれでは、読書は心からの満足を味わわせてくれるものではなく、面倒な仕事だと思えと教えていることになる

(中略)

 私は、環境や、育児や、教育への高潔な姿勢を促すことが、それと対立する考え方につねに優先すべきだと主張しているわけではない。(略)

 学業成績の振るわない子どもにお金を払って本を読ませることが、読解力の劇的な向上につながるとすれば、試してみようと思うだろうー勉学の楽しみを教えるのは後でも大丈夫だと願いつつ。だが大切なのは、賄賂を贈っているのを忘れないことだ。それは道徳的に妥協した行為であり、より低級な規範(お金をもらうための読書)をより高級な規範(読書欲による読書)の代わりとするものなのである。

(中略)

 子供が読書を報酬目当ての仕事とみなすようになり、自分のための読書の喜びが損なわれてしまうかどうかを、われわれは気にすべきだろうか。答えは場合によって異なる。だが、この問題に答えようとすれば、金銭的インセンティブの効果を予測するだけではすまない。道徳的な評価を下す必要があるのだ

(出典元:『それをお金で買いますか 市場主義の限界』マイケル・サンデル ハヤカワ文庫)

7.まとめ

 「お金で買えない価値がある、買えるものはマスターカードで」というキャッチコピーがテレビによく流れていましたが、お金で買えない価値をお金に換算できるようにした時点で、それがお金を得るための道具と成り下がっていくことが見えてきます。

 一方で、勉学の業績を武器として、なんとか生きる道を切り拓いていこうとしている人にとっては、勉学はまさに生きる術(手段)であり、学ぶことそのものにかけがえのない価値があるのだと言われても、むしろ空虚に聞こえるかもしれません。

 ただ、教育が発達保障の営みと言うならば、子どもに学力が育まれるというのは、子どもの成長・発達の一側面と言えます。子どもの成長は、お金で即席で出来ないものであり、また、長い目で子どもの幸せ感を考えたとき、お金で即席で得ようとしてはいけないものなのではないかと考えさせられます。

 

 ここまでお読みいただきありがとうございました。(^^)/

 

「能力に応じた」教育を受ける権利とは

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 前回の記事で、教育は人権保障の観点から進められるものとして、日本国憲法第26条第1項に「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」とあることを紹介しました。
kobe-kosodate.hatenablog.com
 この観点でもう少し続けてみていきたいと思います。

1.子どもの人権

 前回の記事で、教育は生存権社会権の観点から権利化されているものであることをみていきました。

 ここで子どもについてみていくと、大人と同様にひとりの人間として尊重されるべき人権があるということに加え、成長の過程で特別な保護や配慮が必要な、子どもならではの権利もあるとされています。

2.子どもの権利条約

 子どもの権利については、子どもの権利条約が有名です。これは1989年の第44回国連総会において採択され、1990年に発効しました。日本は1994年に批准しています。
 子どもの権利条約では、大きく「生きる権利」「育つ権利」「守られる権利」「参加する権利」の4つの権利が挙げられています。
 また、この条約を貫く4つの一般原則として、
「生命、生存及び発達に対する権利(命を守られ成長できること)」
「子どもの最善の利益(子どもにとって最もよいこと)」
「子どもの意見の尊重(意見を表明し参加できること)」
「差別の禁止(差別のないこと)」

が挙げられています。
 ですので、すべての子どもの命が守られ、もって生まれた能力を十分に伸ばして成長できるよう、医療や教育、生活への支援を受けることなどが保障されなければならないのです。

3.可能性の開花の時期を失うということ

 前回の記事でも引用した堀尾輝久氏は「人間は文化的・社会的環境のなかで、周囲からのさまざまな配慮をうけることによって初めて一人前の人間になるのであり、もしこういう条件を欠いた場合にはその可能性の開花の機会を失って」しまうことを、オオカミに育てられた野生児の事例(イタール『アヴェロンの野生児』福村出版)と、人間に育てられたライオンの話(J・アダムソン『野生のエルザ』文春文庫)を引き合いに出して、次のように述べられています。

 雌ライオンのエルザは、人間の家族のなかで育てられても、ライオンの自然(本性)を基本的には変えることなく、やがて野生にもどることができました。しかし狼に育てられた野生児は、周囲の人びととの情動的交流を基礎に言語を覚え、行動の基本的パターンが育つ乳幼児期に人間的環境と文化との接触を欠いたことによって、人間的諸能力の発達可能性そのものが、将来にわたって欠損を受けることになったのです。  
(出典元:『教育入門』堀尾輝久 岩波新書

 ルソーの「エミール」は「子どもの発見」の書として有名ですが、そこには「自然(=自然法則:著者注)は子どもがおとなになるまえに子どもであることを望んでいる。この順序をひっくりかえそうとすると、成熟してもいない、味わいもない、そしてすぐに腐ってしまう速成の果実を結ばせることになる。わたしたちは若い博士と老いこんだ子どもを与えられることになる」と書かれています。

4.「能力に応じて」=能力主義

 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。(教育基本法第4条第1項)

 この教育基本法の条文を読むと明らかなように、「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」とある憲法第26条は、身分的差別からの解放と平等の発想から、能力以外の一切の差別を拒んだ「教育の機会均等」を謳ったものです。
 しかし、この「能力に応じて」の文言は、一方で、能力による社会的選別、階級化を容認あるいは推進する論拠とされるようにもなっています。
 明治時代の小学校、(尋常・高等)中学校、帝国大学の学校制度は、富国強兵に向けた社会の階層秩序を作ることが期待されていましたが、戦後でも、特に高度経済成長期以降、能力主義はある意味で広く浸透していると言えます。
 優秀な一握りの人材に十分な教育を確保し、その人間がこの社会をけん引していかないとこの社会はやっていけない、それが社会全体のためでもあるのだとの論調は、ある意味で自然に受けとめる人が多いのかもしれません。
 また、「なんとかすればなんとかなる。なんともなってないのは努力が足りないからだ」という観念は、いわゆる成功者と自負している人の中に特に多い考えかもしれません。
 一方で、その一握りのエリート以外の人が十分な教育を受けられないのならば、それは一人ひとりの自立・自由が社会の自立の基礎だという民主的発想と相容れないことになってしまいます。

5.まとめ〜「能力に応じた教育」=「発達の必要に応じた教育」

 では、さきほど挙げた日本国憲法教育基本法の条文はどのように解釈されているのか。今回のまとめとして2つご紹介します。

 能力に応じたひとしい教育機会とは、各人の知的・身体的能力の程度に質的・量的に比例した教育を用意することでも、すべての人に機械的に均一の教育を与えることでもなく、各人のそのときの能力を最大限に伸長させる教育を提供することを意味する
(出典元:『新しい教育行政学』河野和清編著 ミネルヴァ書房

また、

 戦後教育は平等を求めるあまり画一主義的であったとし、それにかわるものとして能力主義による再編が必要だというのですが、他方でこの能力主義を、憲法教育基本法にある「能力に応じて」という文言を援用して合理化しようとしています。「能力に応じて」の教育は、憲法教育基本法の解釈問題としても重要な争点となっています。しかしこの文言の能力主義的解釈は、戦後教育改革の精神と立法意思に即しての正しい解釈とはいえません。制定された当時のこの文言に関する大かたの解釈は、戦前の画一的教育を批判し、個性尊重の教育をうたうものと理解されていたからです。さらに、戦後民主教育の展開につれて、「能力に応じて」は、「発達の必要に応じて」と読まれるべきことが主張されているのです。
(出典元:『教育入門』堀尾輝久 岩波新書

 いかがでしょうか。ここまで見ていきますと、特に子どもの教育とは、一人ひとりの発達保障の営みなんだと、頭の中がスッキリ入ってきます。

 「教育の機会均等」については、特に子どもの貧困の観点からいつかの機会に改めてみていきたいと思います。

 2022年の記事一つ目になります。ここまでお読みいただきありがとうございました(*^^*)

愛のある学問(教育)とは何だろう

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 小学校高学年の授業の一部で来年度から、教科ごとに担任を充てる「教科担任制」が導入されるということで、政府が来年度予算案で950人の教員の増員を決めたという報道がされています。

 年度末にかけて、国や自治体から来年度の取り組みが発表されていくことになりますが、「教育」については、自己や家族が受けてきた教育内容への満足・不満なども相まって、確固たる根拠の無いままでも、意見のいろいろ言いやすい領域です。

 そういう私も日々勉強中のコメントにはなりますが、前回は、教育に対していろいろな考え方があるという点に少しふれました。

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 今回は、それを受けて、そもそも「教育」についてどんなことが言われてきたのかをみていくことで、私自身、頭の整理ができればと思っています。

1 自己の独立、社会の自立

 教育・学問と言えば、明治の啓蒙家である福沢諭吉の「学問のすすめ」があまりにも有名ですね。

 福沢諭吉は、学問(=教育)のすすめは自由な国民のすすめであると考えていました。

 「学問のすすめ」では、誰もが聞く「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」に続けて「人の貧富貴賤は学ぶと学ばざるにあり」と、一人ひとりが精神面・生活面で自立するための学問をつよくすすめました

 次に「一身独立して一国独立する」として、自分の考えの持ちようや社会の維持・向上を、一人ひとりが他者に依存せず、学んで自立した人間になることこそが、一国独立の基礎だと訴えました。

 独立とは、自分にて自分の身を支配し、他に依りすがる心なきを言う。(中略)

 人々この独立の心なくしてただ他人の力に依りすがらんとのみせば、全国の人は皆依りすがる人のみにて、これを引受くる者はなかるべし。

(出典元:「学問のすすめ福沢諭吉 岩波文庫

2 人格の尊厳

 個人が自立し、人間としての尊厳を全うするという概念と、それが社会の礎になるという理論の組み立ては、いまの教育基本法にも受け継がれており、「教育の目的」として、次のように書かれています。

第1条

 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

教育基本法

 「人格の完成」とは、ドイツの哲学者カントの流れを汲む言葉とされています。

 カントは「汝の人格においても、あらゆる他者の人格においても、人間性を単なる手段としてではなく、つねに同時に目的として扱うように行為せよ」(『道徳形而上学原論』)と説きました。

 何かを得るための手段として人間性が位置付けられたり、またそれを高めたりするのではなく、人間性自体が人生の究極目的だから、人格の尊厳は尊重されるのだと示しました。

3 教育は一人ひとりの可能性を全面・十分に開花させるもの

 日本教育学会会長を務めるなどされた東京大学名誉教授の堀尾輝久氏も、求められる子どもの教育を次のように述べています。

 教育は、一人ひとりの子どもの能力の可能性を全面かつ十分に開花させるための意図的営みであり、教材を媒介として子どもの発達に照応した学習を指導し、発達を促す営みである。そしてそのことを通して社会の持続と発展をはかる社会的営みである。

(出典元:『教育入門』堀尾輝久 岩波新書

 ここまでの引用に一貫しているのは、「学び」は一人ひとりの発達を保障し、自身の尊厳を全うさせるとともに、自身がその一部でもある社会をよりよい方向にもっていくために大切なものだという点ではないでしょうか。

4 教育は人権保障の観点から進められるもの

 ところで、日本国憲法第26条第1項には「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」とあります。

 これは憲法第23条で「学問の自由は、これを保障する」と示された精神的自由権を前提に、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と明記された生存権を具体的に保障するため、教育を受ける権利を謳ったものです。

 したがって、教育に関する取り組みというのは、個々人が健やかに成長する基本的人権の保障の観点からすすめられるものだということであり、これは、それまでの大日本帝国憲法の下での教育制度が「教育は…国家生存のために臣民を国家的に養成するにあり」(小林歌吉『教育行政法』金港堂)とされていたものからの大きな転換を意味しています。

5 競争の道具としての我利我利の学力ではなく、社会を愛し育てる学力を

 では、先述の堀尾氏が仰るところの、子どもたちの発達促進を通じて「社会の持続と発展をはかる」というところは、どう読めばよいのでしょうか。

 昭和30年代に「村を捨てる学力、村を育てる学力」という概念を提唱した教育者の東井義雄氏は、相手を負かし、しかしいつかは負かされる、そんな競争の道具としての我利我利の学力ではなく、自らの住む地域や社会を愛し、地域(村)を育てる学力、そうした愛のある学問こそが、結果的にその子が町に出ようが村に残ろうが生き甲斐を持って人生を全う出来る糧となることを訴えられました。

 また、兵庫県立芸術文化観光専門職大学の学長であり、劇作家の平田オリザ氏は、自身が関わっている「豊岡の英語教育は、世界で活躍する人材、世界で闘う人材を育成するための教育ではない。豊岡そのものを国際化するための教育だ」と言われ、次のように述べています。

 いま文科省が進める「グローバル教育」は、二一世紀版の「村を捨てる学力」、いわば「国を捨てる学力」なのではないか。

 それは、言い換えれば、教室にいる四〇人のうちの三九人を犠牲にして、一人のユニクロシンガポール支店長を作るような教育だ。教育工学的に見ても効率が悪いし、そして獲得目標も低い。しかも残りの三九人はグローバル化から取り残され、あるいはそれを怨嗟し、偏狭なナショナリスト予備軍になっていく。誰のための、何のためのグローバル教育なのか。

(『22世紀を見る君たちへ これからを生きるための「練習問題」』平田オリザ 講談社現代新書

 さまざまな教育観があるのは当然であり、ご意見はさまざまだと思いますが、教育が進める「一人ひとりの発達保障」は、「生きやすい・住みやすい社会・人間関係づくり」と相互に結びつく視点が、重要と言えるのではないでしょうか。

 

 2021年も今日で終わりとなりました。

 と書いている時点で2022年が自分の身の上にも当たり前に訪れると思い込んでいますが、自分が経験する最後の年が、いつかおとずれることを思いますと、時間を大切に出来ることをしていかなければと思います。

 ここまでお読みいただきありがとうございました。(^^)/

独りよがりな教育施策をしないために

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 今回は、自治体が教育施策を考えるときに気に留めたい点を振り返りたいと思います。

 何回かに分けて取り上げたいと考えていますが、まずは「教育」に対するさまざまな受け止めを例に挙げてみます。

1.将来不安と、投資としての教育?

 「学ぶ」といえばそれは就職するまでの話で、それ以降は子どもが宿題をしたり塾に行ったりしている横で、お父さんは床に転がって野球中継をみたり、休みも接待ゴルフに出かけていったり。

 そのような姿が、一昔前の典型的な“学びを卒業した大人”のイメージと言えば言い過ぎでしょうか。

 もちろんそんな大人だって、今以上に仕事を家に持ち帰ったり、「24時間働けますか」の当時のCMのとおり仕事に打ち込んだり、接待も大事な対外折衝の場だったり、学校を卒業したあと学びをやめているわけでは決して無いのですが、今よりは世間一般の雇用が比較的安定していたという先入観が、そんなイメージを抱かせるのかもしれません。

 しかし、最近は、学校卒業で学習が完了するイメージは確実に薄れていると感じます。

 一般に、大人が学校卒業後も学習を重ねていくことは、生涯学習を通して自己実現をしようとするワクワクした人生の営みだと思います。

 一方で、社会の先行き不安感もあって、就職後にもスキル習得に向けて講座を受けたり独学したり、また職場から資格をとるよう言われたり、自分が英語に苦労した学生時代の経験から、子どもに英語を早期教育させなければと思ったりと、何かに急き立てられるように勉強せざるを得ない雰囲気もあるように感じます。

 そういう時の親の持つ「教育」のイメージは、将来に向けての「投資」といったところでしょうか。

 しかし、これまでの「学歴社会」から「個性の社会」となっていくと言われる中、実際にどう投資していけばよいのか、情報が氾濫している一方で本当に大切なことが見えないいま、親や周囲も戸惑っている状況なのかもしれません。

2.教養は人生の裾野

 「なぜ勉強するのか」「なぜ学校に行くのか」という本がベストセラーになるのも、子どもだけでなく、いや、むしろ親のほうがその意味をはっきりとわからないあらわれではないでしょうか。

 「なぜ勉強するのか」について、例えば、おおたとしまさ氏が編集した『続 子供はなぜ勉強しなくちゃいけないの?』に寄せた一人、ロザンの宇治原氏は次のように言われています。

富士山がほかの山よりも高いのは、裾野が広いからです。それと同じで、人間も子どものころにいろいろなものを学ぶと、裾野が広がります。裾野が広いと、将来富士山のようなかっこいい大人になれます。(中略)

 今すぐ役に立つものは、たいていすぐに役に立たなくなります。今すぐにはなんの役にも立たないものほど、あとで「芸の肥やし」になることがあります。

(出典元:『続 子供はなぜ勉強しなくちゃいけないの?』日経BP社)

3.教育=貯金や保険?

 一方、実業家の堀江貴文氏は、将来のためにいまは我慢を強いるような勉強のさせ方、考え方に対して、それは、その人の生き方そのものをおかしくしてしまっているのだと言い切っています。

 たとえば受験、就職、キャリアアップ。あるいは結婚、出産、子育て。さらには定年退職、老後。学業だけではない。多種多様な「いざという時」に備えて今は我慢しなさい、というのが大人たちの理屈だ。これは、「貯金」や「保険」とまったく同じ考え方だ。(略)

 今の欲望を我慢して、ありもしないリスクに備えて貯金させられる。(略)

 問題は、この「貯金」的な学び方、我慢の仕方が、学校を卒業してもずっと人を縛るものだということだ。

(出典元:「すべての教育は『洗脳』である 21世紀の脱・学校論」光文社新書

 今の学校教育も含めた学び方や思考は、投資になっておらず、かつ、日本人を不幸にしている元凶なのだと言われています。

4.まとめ

 他にも、「教育とは?学校とは?」となると、みな、一通りの学校生活や教育を受けた経験に基づいて一家言あり、いろいろな意見が噴出します

 それは、行政の取り組みに対して意見を言う側だけではありません。

 制度を作る側もそこに自分の子育て観や教育観の色メガネがはたらくことをまずは自覚しなければと思っています。

 もちろん行政の立場としては、住民の代表である首長(市長、町長など)や議会の考え・方針が大前提なのは言うまでもありません。

 だから、行政職員は、自己を空しくして(空っぽにして)指示を受けとめることが大事だと教えられることもあります。

 一方で、方針を正しく理解して実現させるためにも、また、自分の役割の範囲でしっかり施策を練り上げるためにも、考える時の深みがないと、検討・調整に苦労した挙げ句、「あれっ、そんなこと誰も望んでなかったんじゃないか…」みたいな結果が現出されないとも限りません。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました(*^^*)

幼保小接続、架け橋プログラムとは(その2)

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 幼保小接続についての続きです。
 前回の記事は、以下に掲載しています。
kobe-kosodate.hatenablog.com

1.十園十色

 実際の小学校の状況として、幼稚園のうちから、すでに掛け算を学んできている子どもがいたり、ものすごい難度の高い組体操をやってきていたり、ピアニカで難しい旋律を練習してきていたり。
 ほかにも、背筋をまっすぐ伸ばして耳の横に腕をつけてまっすぐ手を挙げる習慣づけさせる園もあれば、多言語が壁中に貼られていたり、また、ほのぼのとしたゆったりとした時間の流れる園もあるでしょう。
 一方で、幼児同士での関わり合う機会を用意しないような、良い意味では放任ですがちょっと首を傾げる園があったりと、文字通り「十園十色」とも言える園から子どもたちは小学校に入学してきます。
 また、家庭環境もさまざまな中で、就園機会を一つもないまま小学校に入学する子だって今でもいるのです。子どもたちは多種多様な育ちの状況での入学となります。
 そんなバラバラ感でどう授業をすれば、子どもたちみんなに有意義な授業が展開できるのか、また学級経営が成り立つのか、ゼロからのスタートだとして、小学校の型にきちっとはめていかないといけないと力が入る教員がいるのも自然な話かもしれません。

2.教育の方向性も内容も異なるのは国の施策の方向ではなかったか

 一方で、公立・私立の幼稚園・保育所認定こども園に加えて、「もりのようちえん」やその他認可外保育施設など、幼児期の育ちの場は多様化しています。次世代育成に思いを持つ人たちがさまざまなかたちで積極的に参入・参画できることは、総論としては大切な流れですが、「幼稚園教育要領」や「保育所保育指針」などに必ずしも準拠することを要しない事業類型が、親の多様な教育観への対応や待機児童解消のためとして出てきています。
 県も市も指導監督などで深い関与ができないような受け皿や、サービス利用者が一重にリスクを負わざるを得ない事業類型をつくってきたのは、ほかでもない国です。
 それは選択の自由として否定するものではありませんが、教育面をつなぐ議論が生じたとき、なんでバラバラなんだと国は言える立場ではありません。

3.「就学までに基本的な生活習慣を身に着けさせる」が保護者へのプレッシャーにならないか

 そもそも「幼保小接続」とは何なのか、皆その解釈や受け止めがそれこそ「十人十色」になっています。
 これは短絡的に「できる子」と「できない子」とか「落ち着ける子」と「落ち着けない子」のレベル感を合わせる話ではありません。
 最近も新聞でこども家庭庁の議論に関連してこの話題が載っていました。

少子化、試される司令塔
こども家庭庁、23年度に
子どもにまつわる政策を担う行政の新組織「こども家庭庁」の全体像が見えてきた。
(中略)
幼稚園と保育所の所管の統合は見送られた。白井氏(筆者注:横浜市内で「あざみ野白ゆり幼稚園」などの幼稚園を運営する白井三根子氏)の指摘のように社会性が芽生える未就学児に生活の基本を身に着けさせ義務教育に着実に移行するのが重要になる。こども家庭庁と文部科学省に縦割り意識が残らないかが懸念材料だ。
出典元:日経新聞 令和3年12月17日 夕刊

 思いやりの心を丁寧に育み、それを基盤として自制心や規範意識につなげることは大切な視点に違いありません。
 一方で、社会生活の基本を身に着けさせてから入学するものだという風潮が、単に「授業で座れる」とか「落ち着いて聞ける」とかの表層的な育ちの様子だけが強調されてしまうと、発達に多様性がみられる子どもたちとその保護者には重圧になりかねないのではないかと心配します。
 発達には段階がありますが、みんなそれぞれ発達に濃淡があって、できないことがあるのも当たり前で、その中みんな暮らしているのは、子どもの世界だけではないことは、なにより大人が自覚していることではないでしょうか。

4.小学校はその子に育まれているところの「根や芽」を理解してその「育ち」をつなぐ

 前述のとおり、バラバラの教育理念の、バラバラのカリキュラムの教育環境で、(それを「特色ある教育」と呼ばれることもありますが、)子どもたちは育ち、同じ小学校に入学してきます。
 それを「共通」にするのが幼保小接続だと解釈している新聞記事もあり、そうすることで小学校は一斉に一律の指導ができるというわけですが、そんな個々の幼稚園・保育所認定こども園からの矢印が小学校での画一的な授業風景に集約されるような接続が、国の架け橋プログラムで言う「幼保小接続」の「接続」の意味ではないと私は考えています。
 なぜならそこには学ぶ過程に脈々と流れる子どもたちの幸福感という視点が抜けているからです。
 それならば、「接続」とはなにか。
 架け橋プログラムは個々の子どもたちのウェルビーイング(幸せ)向上の取り組みだということを振り返ると、「この子はもう足し算をたくさんできるんだ」という児童理解も大事ですが、それと同様に、「この子は山ほど集めたどんぐりを並べたりして、数量の概念を体感で身につけられているんだ」という理解も大事だということが見えてきます。
 また、それに加えて大切にしたいと感じるのは、能動的に楽しく、どんぐり並べを自分からやっていたのなら、その「自主性」を枯らさないような小学校での授業展開です。
 ですので、幼保小接続の「接続」については、施設間の教育内容のすり合わせ(接続)という側面ももちろん大切ですが、子どもたちの幼児期に育まれた資質を小学校がよく理解して、個別にそれを引き続き伸ばしてあげられる指導・関わりを行うという、子どもごとの育ちの接続の側面こそ大切な視点になるものと考えています。
 ただ、そうは言っても、一人ひとりにオーダーメイドしていくことは理想と現実の間で困難な面も否めません。そこで、幼児期の園と小学校が同じつながりを持った観点で保育や指導をすることがその取っ掛かりになるとして、「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」がとりまとめられ、幼保小の先生方で共有されています。

5.まとめ

 一般に小・中学校の学習は、具体的な対象物での学びから抽象的な概念の学びになっていくと言われますが、幼児期から小学校期にかけて、例えば数の根本的概念が体験的に学べていれば、抽象化の際につまずかない根っこの学力になるように、子ども自身が遊びの中で体験してきた学びの基礎を個別にていねいに把握する視点、またそれを引き継ぐ授業のあり方が大切になると考えます。

 ここまでお読みいただきありがとうございました(*^^*)

幼保小接続、架け橋プログラムとは(その1)

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 12月15日に、中央教育審議会の初等中等教育分科会に設置された「幼児教育と小学校教育の架け橋特別委員会」の第5回会議が開催されていました。
 幼保小(幼稚園・保育所(園)・認定こども園等と小学校)の育ちや学びの接続を進める、いわゆる「架け橋プログラム」については、これまでもいくつかの報道がなされています。

幼児教育 ばらつき直したい
■新プログラム策定へ
小1への移行スムーズに
 文部科学省は、幼稚園や保育園、認定こども園に通う5~6歳児が小学1年生へと円滑に移行できるよう、新たな教育プログラムの策定を進めている。国際的にも幼児教育が重視されるなか、幼児期の学びのあり方を具体的に示すことで、小学校でのつまずきをなくし、効果的な学習へとつなげることが狙いだ。
 「規律を大事にする教育を受けた小1の児童は、いすに座って先生の話を聞ける。だが、そのような教育を受けなかった児童は言うことを聞かず、一律の指導が難しい」
 東京都内の小学校校長がこう打ち明けるように、毎年、新1年生の態度にはばらつきが目立つ。深刻なケースでは、勉強についていけなくなるほか、授業中に騒いだり、不登校になったりする「小1プロブレム」が生じかねないという。
出典元:読売新聞 令和3年11月5日(朝刊)

 幼稚園や保育園でしっかり小学校入学の準備をしてこず、バラバラなレベル感で小学校に入学してくるので、小学校で45分ずっと座ってくれないし、一斉一律授業ができないのだという悩みを中心に書かれていますが、これをどう読めばよいのでしょうか。
 幼保小接続について何度かに分けてみていきたいと思います。
 まず今回は、幼保小の接続について、架け橋プログラムがどのような視点で検討されているのかを見ていきます。

1.架け橋特別委員会での議論:子どもたちの精神的幸福度

 幼児期の教育と小学校教育の円滑な接続を検討している「幼児教育と小学校教育の架け橋特別委員会」で挙げられている主要な論点の一つは、「すべての幼児のウェルビーイングを高めるカリキュラムの実現」です。
 幼児教育と小学校教育の接続を考えるとき、重視されているのは、子どもの人権を基盤とする「メンタル・ウェルビーイング」の視点であり、精神的幸福度合いを高める保育実践や授業展開がなされることを重視しています。
 日本の子どもたちの幸福感が世界比較で非常に低いということが、新聞等の紙面で取り上げられていたことを記憶している方もあると思いますが、これは、ユニセフの調査によるものです。(『レポートカード16-子どもたちに影響する世界:先進国の子どもの幸福度を形作るものは何か(原題:Worlds of Influence: Understanding what shapes child well-being in rich countries)』)

日本の子どもの幸福度の結果
 よい子ども時代とは何でしょうか。レポートカード16では、それを、精神的幸福度、身体的健康、スキルの3つの側面から考え、それぞれ2つずつの指標で分析しました。
 精神的幸福度については、ポジティブな面の指標として、生活満足度、ネガティブな指標として自殺率を使いました。
 身体的健康では、子どもの死亡率、そして、先進国における栄養不良を表す肥満率に注目しました。
 スキルについては、子どもたちが高い学力をもつだけでは不十分と考え、学力と社会的スキルを同じ比重で分析しました。
総合順位20位
分野別順位
 精神的幸福度(37位)
 身体的健康(1位)
 スキル(27位)
日本は子どもの幸福度(結果)の総合順位で20位でした(38カ国中)。
しかし分野ごとの内訳をみると、両極端な結果が混在する「パラドックス」ともいえる結果です。身体的健康は1位でありながら、精神的幸福度は37位という最下位に近い結果となりました。また、スキルは27位でしたが、その内訳をみると、2つの指標の順位は両極端です。
出典元:公益財団法人日本ユニセフ協会ホームページ「ユニセフ報告書「レポートカード16」先進国の子どもの幸福度をランキング 日本の子どもに関する結果」より(筆者にて太字)

 なお、この引用のうち「スキル」の内訳である「2つの指標」とは、「数学・読解力で基礎的習熟度に達している15歳の割合」と「社会的スキルを身につけている15歳の割合」であり、前者(数学・読解力)がトップ5に入る一方で、後者(社会的スキル)はワースト2位という結果でした。

2.「授業で座るように」=「子どもの幸せ感」?

 特別委員会の主要な論点が、子どもの幸福感を高める保育や授業をどう展開するかだと聞くと、それは先述の記事のような「学校で落ち着かないような子が減って、小学校入学までに自制心や規範意識をもった振る舞いができるようになる子どもが増えるようにすべきだ」という話とは論点が異なるように感じる人も多いかもしれません。
 少し古いですが、国が平成22年に立ち上げた「幼児期の教育と小学校教育の円滑な接続の在り方に関する調査研究協力者会議」の報告書には次のように書かれています。

 幼児期(特に幼児期の終わり)における学びの基礎力の育成において重要であるのは、幼児が人やものに興味をもち、かかわる中で様々なことに気付くとともに、それらを深め、広げていく過程の中で、自己発揮と自己抑制を調整する力を育むことであり、それらを通じて、個人として、また社会の構成員としての自立への基礎を養うことである。
 具体的には、「学びの自立」、「生活上の自立」、「精神的な自立」の「三つの自立」を養うことであり、(中略)こうした考え方は、幼児期の教育との接続を図る上で重要な役割を果たす小学校低学年の生活科の目標に通ずるものであることにも留意する必要がある
出典元:幼児期の教育と小学校教育の円滑な接続の在り方について(報告)平成22年11月11日(筆者にて太字)

 次に、ひるがえって「幼児期と児童期が共通して抱える課題への対応」として、

 近年の子どもの育ちについては、基本的な生活習慣が身に付いていない、他者とのかかわりが苦手である、自制心や耐性、規範意識が十分に育っていないなどの課題が指摘されている。また、小学校1年生などの教室において、学習に集中できない、教員の話が聞けずに授業が成立しないなど学級がうまく機能しない状況(いわゆる「小1プロブレム」)にある学校が見られる。加えて、多くの情報に囲まれた環境にいるため、世の中についての知識は増えているものの、それらは断片的で受け身的なものが多く、学習に対する意欲や関心が低いとの指摘がある。
 これらはまさに幼児期から児童期にかけての学びの基礎力の育成の在り方に関わる問題、すなわち「学びの自立」、「生活上の自立」、「精神的な自立」を培うことや「基礎的な知識・技能」、「課題解決のために必要な思考力、判断力、表現力等」、「主体的に学習に取り組む態度」といった生涯にわたる学習基盤の形成の在り方に関わる問題である。
出典元:幼児期の教育と小学校教育の円滑な接続の在り方について(報告)平成22年11月11日(筆者にて太字)

 ここまでお読みいただいていかがでしょうか。
 幼児教育において「幼児が人やものに興味をもち、かかわる中で様々なことに気付くとともに、それらを深め、広げていく過程」というのは、子ども本人が能動的・意欲的に遊び込む過程であって、本来的に楽しいもの(幸せなもの)です。
 逆に、小学校入学期の子どもに「自制心や耐性、規範意識が十分に育っていない」という現状は、現在の幼児期の教育で、表層的な「できる・できない」に力が入り、幼児が人やものに興味をもち、それらに関わる中での気付きや深まりの中で自己発揮と自己抑制を調整する力を育む過程や、個人及び社会の一員としての自立への基礎を養う過程が、なおざりになっていないかという警鐘だと受け取れないでしょうか。

3.他者への関心・共感・「思いやり」の表れとしての自制心や規範意識

 ついつい私たちは、子どもに対して「人にはやさしくするんですよ」とか言いますが、そもそも、他人に暴力を振るわないとか、やさしく接するとか、人の気持ちを汲み取ろうとする言動は、大人から「やさしくしなさい」と言われて、「やさしくしないといけないんだ」と思って身につくものではなく、根っこには愛着を基盤とする自尊心があり、それを土台に、他者との共同体験の積み重ねが、自分以外の人の気持ちに思いを寄せたり、共感することにつながり、いわゆる「思いやり」が芽生え、自制心や規範意識として、小学校でのいわゆる落ち着いたクラスにつながることは、今ではよく知られていることです。
 しつけを否定するものでは全くなく、大切なものに間違いはありませんが、ここまで考えていきますと、先述の小学校長が「規律を大事にする教育を受けてこなかった児童は言うことを聞かず、一律の指導が難しい」という趣旨のコメントが、仮に「ちゃんと座る習慣づけをしたり、大人の話を静かに聞く習慣づけをしてから入学してきてもらわないと、一律指導ができない」ということならば、記者が発言の一部を切り取ったものだとはいえ、短絡的な現状認識だということになってしまいます。
 根はもっと深いところにありますし、もっと言えば、小学校入学後にすぐに一斉に一律指導できるのが小学校教育上重要な段取りだと思われているのなら、そのあたりについてももう少し考えていく必要があるように思います。

4.小学校の前倒し教育ではなく、幼児期だからこそ養うべき力を伸ばすということ

(1)早期教育の誤解

 文部科学省は、この架け橋プログラムは早期教育を進めるものではないと強調していますが、小学校に入るまでに、名前はもちろん平仮名を一通り書けるようにさせたり、足し算ぐらいはできるようにさせたり、というのが地域によって当たり前で、いや、もっともっと地域では早期教育に拍車がかかっている中での「幼小接続の推進」の報道は、早期教育のさらなる前倒しだと誤って受け止められているところもあるようです。

狙いは小1プロプレムの解消? 文部科学省「架け橋プログラム」策定へ
幼児教育から小学校教育への移行をスムーズに
幼稚園や保育園、認定こども園に通う5~6歳児が小学校1年生にスムーズに移行できるよう、文部科学省が新たな教育プログラム、「幼保小の架け橋プログラム」の策定を進めています。
授業中なのに、教室内を歩き回る。先生の指示通りに行動できない。今回の「架け橋プログラム」の背景にあるのが、こんな「小1プロブレム」だそう。 
(中略)
幼児教育は重要だけど……?
実は、今回のプログラムには「小1プロブレムが5歳プロブレムに変わるだけ」「行きすぎた早期教育では?」といった疑問の声も少なからず聞こえてきます。 
(中略)
授業をきちんと聞くことができない新入生。深刻なケースでは、早期に勉強についていけなくなったり、不登校につながることもある、と聞くと、幼児教育の質を保ち、小学校にスムーズに移行する、というのは確かに重要、と感じます。けれど、椅子にきちんと座って先生の言う通りに動くことで、かえって委縮する子どももいるのでは?と思うことも。しかも、家庭環境や、園の教育方針、園庭の広さ、保育士の数、質など、違いは多岐にわたります。
「個性」が求められる時代。異なる環境の中で、個々の特性を伸ばしつつも、教育の質も確保する。「言うも行うも、なかなか難し」というところでしょうか。
出典元:Hanakoママweb【気になる!教育ニュース】 小1プロプレムの解消 のための国の施策とは
hanakomama.jp

(2)「架け橋プログラム=5歳児教育プログラム」ではない

 そもそも架け橋プログラムの趣旨(子供たちの精神的幸福度向上)は、小学校の前倒し教育ではなく、幼児期だからこそ養うべき力を伸ばすということにあり、特別委員会の論点整理資料からも、5歳児クラスから小学校1年生までの期間を主眼に取り組みが必要だと記載されています
 ですので、架け橋プログラムは、「幼稚園・保育所(園)・認定こども園等で、もっとちゃんと躾をしてから入学までつなげなさい」という趣旨では無いことはもちろんのこと、「幼稚園・保育所(園)・認定こども園等の保育実践をがんばれ」というだけの話でもなく、この射程には「小学校1年生の学級経営や授業がこのままでよいのか」という視点が入っていることは明らかです
 これは、先述の「Hanakoママweb」さんが、「椅子にきちんと座って先生の言う通りに動くことで、かえって委縮する子どももいるのでは?と思うことも。」と違和感を感じておられるところとつながります。
 文部科学省が公表している委員会資料をきちんと読めば、新聞紙上を踊っているような「5歳児教育プログラム 狙いは」とか、先述の「幼児教育 ばらつき直したい」というような、幼児教育だけを狙い撃ちするような見出しにはならないのにと思います。
 報道がそういう視点をされているため、どうしても小学校に向けた準備を幼児期にしっかりさせるのだという受け止めになってしまうのですが、本当は、幼児期だからこそ養うべき根っこの力をどうやって伸ばしてあげれば、小学校以降自ら生き生きと花開くことにつながるのか、また、幼児期に育んだ根っこの力をどうやったら小学校教育は上手に引き継げるのかという、子どもたちの発達段階に応じた、幸福度向上につながる取り組みを進める必要があると考えます。
 次回は、幼保小接続、架け橋プログラムを、小学校教育の方からもっと見ていきたいと思います。

 ここまでお読みいただきありがとうございました。(^^)/