自治体職員が書く“子育て支援・教育行政”

行政窓口で待機児童の家庭のお話をうかがったり、制度設計に奔走している者にしかわからないところを伝えたい、という思いで書いています。子どもの幸せ・親の幸せに幼児教育・保育制度はどう寄与していけるのか、一つひとつ制度を深掘りしていきます。

幼保小接続、架け橋プログラムとは(その2)

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 幼保小接続についての続きです。
 前回の記事は、以下に掲載しています。
kobe-kosodate.hatenablog.com

1.十園十色

 実際の小学校の状況として、幼稚園のうちから、すでに掛け算を学んできている子どもがいたり、ものすごい難度の高い組体操をやってきていたり、ピアニカで難しい旋律を練習してきていたり。
 ほかにも、背筋をまっすぐ伸ばして耳の横に腕をつけてまっすぐ手を挙げる習慣づけさせる園もあれば、多言語が壁中に貼られていたり、また、ほのぼのとしたゆったりとした時間の流れる園もあるでしょう。
 一方で、幼児同士での関わり合う機会を用意しないような、良い意味では放任ですがちょっと首を傾げる園があったりと、文字通り「十園十色」とも言える園から子どもたちは小学校に入学してきます。
 また、家庭環境もさまざまな中で、就園機会を一つもないまま小学校に入学する子だって今でもいるのです。子どもたちは多種多様な育ちの状況での入学となります。
 そんなバラバラ感でどう授業をすれば、子どもたちみんなに有意義な授業が展開できるのか、また学級経営が成り立つのか、ゼロからのスタートだとして、小学校の型にきちっとはめていかないといけないと力が入る教員がいるのも自然な話かもしれません。

2.教育の方向性も内容も異なるのは国の施策の方向ではなかったか

 一方で、公立・私立の幼稚園・保育所認定こども園に加えて、「もりのようちえん」やその他認可外保育施設など、幼児期の育ちの場は多様化しています。次世代育成に思いを持つ人たちがさまざまなかたちで積極的に参入・参画できることは、総論としては大切な流れですが、「幼稚園教育要領」や「保育所保育指針」などに必ずしも準拠することを要しない事業類型が、親の多様な教育観への対応や待機児童解消のためとして出てきています。
 県も市も指導監督などで深い関与ができないような受け皿や、サービス利用者が一重にリスクを負わざるを得ない事業類型をつくってきたのは、ほかでもない国です。
 それは選択の自由として否定するものではありませんが、教育面をつなぐ議論が生じたとき、なんでバラバラなんだと国は言える立場ではありません。

3.「就学までに基本的な生活習慣を身に着けさせる」が保護者へのプレッシャーにならないか

 そもそも「幼保小接続」とは何なのか、皆その解釈や受け止めがそれこそ「十人十色」になっています。
 これは短絡的に「できる子」と「できない子」とか「落ち着ける子」と「落ち着けない子」のレベル感を合わせる話ではありません。
 最近も新聞でこども家庭庁の議論に関連してこの話題が載っていました。

少子化、試される司令塔
こども家庭庁、23年度に
子どもにまつわる政策を担う行政の新組織「こども家庭庁」の全体像が見えてきた。
(中略)
幼稚園と保育所の所管の統合は見送られた。白井氏(筆者注:横浜市内で「あざみ野白ゆり幼稚園」などの幼稚園を運営する白井三根子氏)の指摘のように社会性が芽生える未就学児に生活の基本を身に着けさせ義務教育に着実に移行するのが重要になる。こども家庭庁と文部科学省に縦割り意識が残らないかが懸念材料だ。
出典元:日経新聞 令和3年12月17日 夕刊

 思いやりの心を丁寧に育み、それを基盤として自制心や規範意識につなげることは大切な視点に違いありません。
 一方で、社会生活の基本を身に着けさせてから入学するものだという風潮が、単に「授業で座れる」とか「落ち着いて聞ける」とかの表層的な育ちの様子だけが強調されてしまうと、発達に多様性がみられる子どもたちとその保護者には重圧になりかねないのではないかと心配します。
 発達には段階がありますが、みんなそれぞれ発達に濃淡があって、できないことがあるのも当たり前で、その中みんな暮らしているのは、子どもの世界だけではないことは、なにより大人が自覚していることではないでしょうか。

4.小学校はその子に育まれているところの「根や芽」を理解してその「育ち」をつなぐ

 前述のとおり、バラバラの教育理念の、バラバラのカリキュラムの教育環境で、(それを「特色ある教育」と呼ばれることもありますが、)子どもたちは育ち、同じ小学校に入学してきます。
 それを「共通」にするのが幼保小接続だと解釈している新聞記事もあり、そうすることで小学校は一斉に一律の指導ができるというわけですが、そんな個々の幼稚園・保育所認定こども園からの矢印が小学校での画一的な授業風景に集約されるような接続が、国の架け橋プログラムで言う「幼保小接続」の「接続」の意味ではないと私は考えています。
 なぜならそこには学ぶ過程に脈々と流れる子どもたちの幸福感という視点が抜けているからです。
 それならば、「接続」とはなにか。
 架け橋プログラムは個々の子どもたちのウェルビーイング(幸せ)向上の取り組みだということを振り返ると、「この子はもう足し算をたくさんできるんだ」という児童理解も大事ですが、それと同様に、「この子は山ほど集めたどんぐりを並べたりして、数量の概念を体感で身につけられているんだ」という理解も大事だということが見えてきます。
 また、それに加えて大切にしたいと感じるのは、能動的に楽しく、どんぐり並べを自分からやっていたのなら、その「自主性」を枯らさないような小学校での授業展開です。
 ですので、幼保小接続の「接続」については、施設間の教育内容のすり合わせ(接続)という側面ももちろん大切ですが、子どもたちの幼児期に育まれた資質を小学校がよく理解して、個別にそれを引き続き伸ばしてあげられる指導・関わりを行うという、子どもごとの育ちの接続の側面こそ大切な視点になるものと考えています。
 ただ、そうは言っても、一人ひとりにオーダーメイドしていくことは理想と現実の間で困難な面も否めません。そこで、幼児期の園と小学校が同じつながりを持った観点で保育や指導をすることがその取っ掛かりになるとして、「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」がとりまとめられ、幼保小の先生方で共有されています。

5.まとめ

 一般に小・中学校の学習は、具体的な対象物での学びから抽象的な概念の学びになっていくと言われますが、幼児期から小学校期にかけて、例えば数の根本的概念が体験的に学べていれば、抽象化の際につまずかない根っこの学力になるように、子ども自身が遊びの中で体験してきた学びの基礎を個別にていねいに把握する視点、またそれを引き継ぐ授業のあり方が大切になると考えます。

 ここまでお読みいただきありがとうございました(*^^*)