自治体職員が書く“子育て支援・教育行政”

行政窓口で待機児童の家庭のお話をうかがったり、制度設計に奔走している者にしかわからないところを伝えたい、という思いで書いています。子どもの幸せ・親の幸せに幼児教育・保育制度はどう寄与していけるのか、一つひとつ制度を深掘りしていきます。

「保育の保障」と「幼児教育の保障」

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 だいぶ前になりますが、国の少子化対策について以下の記事がありました。

 共働き家庭が急速に増加する中、幼稚園の預かり保育が普及し、保育所との役割の差は小さくなっている保育所でも小学校入学前に必要な非認知能力など幼児教育の重要性が高まっている。

(中略)

 現行の認可保育所の大きな問題点は家庭での保育を原則とし、欠ける場合に保育所が補完する「児童福祉法」に基づいていることにある。女性が本格的に働くことが当たり前の社会では、保育所は公共性の高い「保育サービス」に転換されなければならない。

(出典元:日本経済新聞電子版 2022/1/5 2:00 朝刊)

 今日は、この論調から教育・保育制度をみていきたいと思います。

1.「保育所はもはや福祉ではない」のか

 世間では保育園と言われる園の方が多いですが、それら保育園も保育所も、法律上は「保育所」であり、同じルールに基づくものです。

 すでに7~8年ほど前のことになりますが、保育所の保育料のルールについて、市会議員の先生に説明にうかがう機会がありました。

 その時、保育料について応能負担(払える能力に応じて(=応能)、保育料が変わる制度であること)などを説明していた際に、ご意見をいただいたのが保育所はもはや福祉ではない。社会保障制度だ。それに見合った制度にすべきだ」ということでした。

2.社会保障としての保育所

 たしかに、保育所制度は子育て家庭の社会保障の一翼を担っています。

 平成24年2月に閣議決定された「社会保障・税一体改革大綱」によって、今の「子ども・子育て支援新制度」の制度化が現実味を帯びました。

 これは、消費税増税を柱とする税制抜本改革を行うとともに、そのお金の一部を「子育て」の分野にあてるための改革だったわけで、「年金・医療・介護」に加え、「子育て」も社会保障の一つとして、恒久的な財源で保障されるようになったスタートでした。

 実際に、保育所などでの保育の推進は、児童福祉というよりも、子育て家庭の支援としての側面が前面に出ることの方が多いと言えます。

 私の市の子育て支援の計画でも、保育所の保育の推進や、いわゆる待機児童解消は「仕事と子育ての両立支援」という項目に出てきます。

3.児童福祉としての保育所 

 また、そもそも保育所は「保育を必要とする児童を保育する」施設です。もともとの「保育に欠ける」の文言が、子ども・子育て支援新制度の際に「保育を必要とする」に文言が改められました。

 家庭保育が前提で、それが欠如しているというニュアンスの「保育に欠ける」から「保育を必要とする」に改めたのは、現状の社会認識に合わせたものとみられますが、「保育に欠ける」も「保育を必要とする」も、保育所の役割として変わるところはないと、当時も国から説明がありました。

 そもそも「保育に欠ける児童を保育する」とは何かというと、これは「市町村の保育の保障」を言われたものです。

 この「保育に欠ける」の前には、「市町村は」がついています。我が国では、小・中学校の学齢期の子どもに教育機会が保障されているように、「保育」については、市町村に義務化されているのです。

 

(これを思うにつけ、待機児童問題は喫緊の課題であることがいよいよ知らされます。待機児童については以下の記事もご覧いただければと思います。)

kobe-kosodate.hatenablog.com

 

kobe-kosodate.hatenablog.com

 

4.「保育の保障」面と利便性のどちらも求められる保育所制度

 市町村が必要な子どもの保育を保障するため、保育所は、社会保障としても、福祉としても、それこそ裕福な家庭からそうでない家庭まで、また、幸せ感いっぱいの家庭から愛着形成も進まない養育環境の子どもまで、幅広くその子の保育を保障しています。

 「保育の保障」を市町村に課している以上、これは「保育の義務化」です。学齢期の義務教育のようなものです。

 そのために、保育所の利用にあたって、市町村の義務の範囲なのかどうか、入所する事由を審査し、優先度合いをみて選考します。

 家に居る日は家庭で子どもをみてほしいと園が言ってくるのも、その保育所の設置目的からきます。

 だからこそ、保育所のサービスは、簡単に使える利用者本位の仕組みになっていないと言われることもありますし、実際に、過度な手続きは改善していかなければならない面も否めません。

 よって、冒頭の記事のように、幼稚園と似通った施設になってきているのに、幼稚園が融通が利く一方で、保育所は家庭保育を補完する制度としての位置づけのままで、「公共性の高い保育サービス」になっていないと批判されることになります。

5.制度上は、この国に「幼児教育の保障」は無い

 しかし、私はこの批判は、保育所(制度)に向けるべき刃ではないとみます。

 さまざまな養育環境の家庭がある中で、保育所に「保育の保障」は要りますし、これはかけがえのないものです。

 「保育の保障」を前提として、役所は利用調整をし、障がいのある子どもでも、受け入れ先は無いか、悩み、調整に努力を重ねます。

 現状制度では、(理事長・園長すら自覚されていない園もありますが、)幼稚園から移行した幼保連携型認定こども園も含め、保育所と幼保連携型認定こども園は、児童福祉施設として、保育が真に必要な子どもを、自治体が保護者の申請無しに入所を措置することもあり得る施設なのです。

 ですので、利便性も大事ですが、保育の保障を失うような方向性に舵を切るのは後でとりかえしがつかないことになりかねません。

 ふりかえって、冒頭の記事では「現行の認可保育所の大きな問題点は家庭での保育を原則とし」とありました。一方で、幼稚園に行っている子どももいます。

 この「家庭での保育」と「幼稚園」とをどう読むのが、児童福祉法上妥当な読み方なのでしょうか。

 この記事に沿った言葉遣いをするならば、幼稚園を利用している家庭を含み、家庭での保育に欠ける場合に、保育所が補完する」のが保育所という制度になります。

 ですので、「幼稚園での集団教育や家庭での教育を受けられる子どもはそれでよいけれど、就労などで外出している時間が長くてそれは難しいという家庭は保育所で必ず保育して、養護と教育を一体的に提供します」というのが保育所制度です。

 ということは、幼稚園に行けるような親の就労状況にある子どもは、幼稚園ですべからく幼児教育が受けられているという前提が、保育所制度側にはあるわけです。

 しかし、そうはなっていません。我が国では、いわゆる幼稚園での教育機会については保障されていないのです。

6.「無償」は「義務」ではない

 数年前に幼児教育は無償化されました。しかし、「無償」は義務とは全く異なります。無償であろうが、そもそも3歳からの幼児教育施設が無い自治体だってあるわけで、そうなれば、無償かどうか以前の話です。

 また、無償化であっても、入園や園の選考に要する費用などは園独自に設定されるものであり、親の資力によって選択の幅は狭まります。

 幼稚園に行きたくても、障がいやその他の理由で園の教育方針に合わなければ入園が叶わないこともあり、役所が保育所入所について、さまざまな障がいのある子どもも、まずはなんとか受け入れられないか検討するところから始めるのとは受け入れの前提が異なります。

 しかし、その園について私は批判しているわけではありません。それが幼稚園という制度なのであり、記事にあるように、非認知能力など幼児教育の重要性が高まっているというならば、「養護と教育を一体的に提供する保育」が、保育所に通える一部の子どもに保障されているように、残る子どもたちには、幼児教育が保障されなければならないのではないかと言いたいのです。

 認可保育所の制度は、児童福祉法に基づき、カバーすべき範囲の教育保障をするスキームになっています。逆に、学校を名乗る幼稚園の制度が、カバーすべき範囲の教育保障をしていないのならば、それこそ公共的なサービスとしては課題があると言えるのではないでしょうか。

 

 ここまでお読みいただきありがとうございました。(^^)/

「幼保の一元管理」は形式的な話か、それとも子どもの幸せに直結するか

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 こども家庭庁を設置する話題において、新聞紙上でよく課題提起されているのは、組織の検討において幼保の一元管理が進まなかったという点と、財源面が充実するか分からないという点の2点です。

子ども中心の行政を確立するとともに、少子化に歯止めをかけるための新しい行政組織として、「こども家庭庁」の創設が2021年末に閣議決定された。しかし、文部科学省厚生労働省内閣府の縦割り行政の一本化や、諸外国に比べて少ない財源の確保などの措置は明確ではない。これでは岸田内閣の少子化対策への本気度は疑わしい。
出典元:日本経済新聞電子版 2022年1月5日 朝刊

 幼保一元化については以前にも2度記事を書かせていただきました。
kobe-kosodate.hatenablog.com
kobe-kosodate.hatenablog.com

 今回はまた違う観点からみていきたいと思います。

1 こどもに関する政策は待ったなし

 幼稚園と保育所の管轄を同じにすることは、それらの設置趣旨や制度の根本から異なることから、非常に大変な作業が要るのは事実です。
 日本大学教授で内閣府子供の貧困対策に関する有識者会議構成員の末冨芳氏は、以下のように言われています。

 幼保一元化をしないなら意味がない、こども庁が先送りされるようだ、このような単純化しすぎた偏った報道はとても危険です。
すでに省庁間連携での取り組みが進展してきた幼保一元化よりも、いままで取り組みがゼロだったこども政策に急いで着手するほうが、子ども若者のためにはよほど重要だからです。(中略)
 私は、幼保一元化はこども庁では不要であるという議論を、当初から展開してきました。
 幼保の制度統一にだけコストが割かれ、「やった感」だけが大人の間で演出され、子ども若者への投資や政策は充実しない、親子置き去りのノーメリットオプションだからです。
 教育政策の専門家として、エビデンスに基づくならば、幼保一元化など形式的なことにこだわるよりも、保育・幼児教育の質の向上のための適切な政策(とくにカリキュラムの質の向上)とそのための政府投資が急がれるからです。
出典元:子どもも親も置き去り?設置先送り批判・幼保一元化偏重のこども庁報道が危険な2つの理由 #こども政策(末冨芳) - 個人 - Yahoo!ニュース

2 幼保の一元管理はたしかに手段に過ぎないが、幼保の違いが、子ども政策のかなりの足かせになっているのでは

 こども家庭庁の創設にかかわっておられる先生方の論調を拝読すると、たしかに、餅は餅屋と言われるとおり、こども政策は喫緊の課題であること、そして、保育園や幼稚園利用において、乳幼児期からの教育・保育の質の担保が大事なことや、乳幼児期の教育・保育に財源投入することが日本の今後にとってとても必要なことなどが確信を持って伝わってきます。
 一方で、教育や保育の質はこうあるべきだという統一カリキュラムをいくら作っても、もともと向かう方向が異なり、公的な補助も根本的に異なり、経営の自由度が大きく異なり、基本的に国のカリキュラムに従う義務が無い施設類型もある中で、教育や保育の質を統一的に確保することは出来ようがありません。
 例えば、いくら0〜2歳でこんな保育が良いという素晴らしい資料が国で出来上がっても、保育園のクラスと、幼稚園のプレ保育は、公のお金のかけ方も、職員配置も利用ルールも違います。
 自治を旨として競争社会の中での経営で信用を得てこられた私立幼稚園と、それよりも公的なバックアップは比較的手厚いものの、福祉の受け皿として障害のある子どもも養育上の支援が必要な家庭も総ぐるみで支えることを信条としてこられた私立保育園の実態があります。
 そのどちらもその意義の中で地域の教育・保育を守っておられるわけですが、そもそもの制度の元を作っている国が、その制度の違いはそのままでも、同じく教育レベルが保障されるとか、障害児もきめ細かに保育を受けられるとか、どうしても園と反りが合わない家庭の子どもの教育・保育が保障されるなどと本気でお思いならば、それは首をかしげざるを得ません

3.認定こども園の4類型、幼稚園、保育園で障害のある子どもへの国の支援が違う

 保育園の制度では、厚労省の障害児保育のための園への補助制度があります。また、幼稚園でも、文科省特別支援教育振興として障害のある子どもの受け入れに対する補助制度があります。
 しかし、その対象範囲(どの程度の障害かなど)は異なりますし、補助対象となるかの審査も違います。また、補助額もまったく異なります。
 建前上、主婦層と共働き層が制度上分かれていた時代まで、すなわち子ども・子育て支援新制度が始まるまでは、幼保の違いということで説明していましたが、現在は、多数の幼稚園や保育園が認定こども園に看板替えしていて、よく批判される三元化どころかマトリクス的な制度になっています。
 それは、施設類型だけでなく、利用者の支給認定でサービスの趣旨(教育色か福祉色か)が分かれるからです。
 小さな例を挙げれば、幼稚園型認定こども園の0-2歳と3-5歳の子どもは、どちらの補助制度でしょうか。
 0-2歳は、保育枠であり、厚労省制度で対応するとして、3-5歳になれば、幼稚園型なので、文科省制度で対応するのが基本で、(この時点で何を説明しているのか意味が分からないでしょうが、)3-5歳で審査基準上、対象から外れるならば、子どもにとっても園にとっても何もよいことはありません。
 これは、子どもや家庭にとって理屈のない差異のほんの一例です。


 今、オミクロン株の流行で、幼稚園も保育園も大変なことになっていますが、同じ年齢に対しても、文科省が幼稚園に出しているマスクの扱いと、厚労省の保育園への通知は、内容が異なります文科省は、小中学校での対応をベースに幼稚園について補足しており、厚労省は、乳児期等の対応から年長の子へと考えを広げています。どちらも専門的見地に基づくものです。
 私はどちらの立場も経験していますので、文科省厚労省もその言いたい趣旨や、そう言われている背景は理解できますが、今は学校であり児童福祉施設である認定こども園がたくさんあります。その園はどうしたらよいのでしょうか。

4.まとめ

 国は、こども家庭庁に、文科省などの他省庁に物申す権限を付与することによって、一元的対応を進める手立てとしようとされています。
 それは、たしかに一定の効果はあると思いますが、こと幼保に関して言うならば、そんな大綱レベルで幼保を合わせにかかっても、それこそ机上の話であり、子どもへのサービスの不公平はそんなレベル感で発生しているのではないことを、国も、それに従って動くことになる自治体も肝に銘じなければなりません。
 何より、自治体は(もしかしたら国もそうかもと疑ってしまいますが)、まず、幼保とは何かをもっと知らなければならない、そこからなのだと知らされます。

教育行政をおこなうものについて

「王のなすべきことは、一つの樹から百の果実を得られるような優秀な人材を、長期間かけて育成すること」

 ~ 一年の計は穀(こく)を樹(う)うるに如(し)くは莫(な)く、十年の計は木を樹うるに如くは莫く、終身の計は人を樹うるに如くは莫し
 一樹一穫なる者は穀なり、一樹十穫なる者は木なり、一樹百穫なる者は人なり
 我れ苟(いやし)くも之れを種(う)う、神の之れを用ふるが如し。
 事を挙ぐること神の如き、唯(こ)れ王の門 ~

 これは、春秋戦国時代の斉(せい)の宰相である管仲(かんちゅう)が、君主である桓公から今後の国家経営に関して意見を求められた際に応えた言葉として、『史記』に登場します。

 現在でも「教育は国家百年の大計である」と言われ、教育こそ最重要だと強調されるのは、この管仲の言が元になっているのですが、現代社会において「人を樹うる」(=教育)ことは、管仲桓公に進言した時代より、趣旨も必要性もはるかに高くなっているのではないでしょうか。

 それは、教育を保障する意味が、共同体の維持・発展のみならず、一人ひとりの人生への構えに直結する問題として捉えられているからだということは、これまでもいくつかの記事でさまざまな方の著述を通してみてきたとおりです。

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 一方で、共同体で、みなさんの持ち寄った負担(税金)によって、社会の営みを維持・向上しようとするときに、保障しなければならないものは、教育だけではありません。

 以前の記事で公教育や義務教育というものについて振り返りました。

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 今回は、一層テキスト的な話になりますが、次に述べるあたりは(学校ではただ不要な知識だと見られているからだけかもしれませんが)学校の先生方もご存じないこともありますので、教育行政の初歩的な点を、何回かに分けてみていきます。(一般の方には退屈な話かもしれません。ご了承ください。)

1.「教育の中の行政」と「行政の中の教育」

 教育関係者は、大学で履修科目として、たとえば「教育哲学」や「教育心理学」、「教育方法学」など様々な体系を学びますが、教育委員会でやっている事務のようなものは、「教育行政学」や「公教育学」という名で学習する分野であり、これは教育という広い世界の一部分に過ぎません。

 一方、役所では、「教育」は、あくまでたくさんある行政事務の一つであり、住民生活の基となる戸籍や住民票の管理からはじまり、保健医療、健康保険や介護保険、また、道路や港といったインフラの管理、そして、消防・救急、警察、環境、ほかにも農漁業や経済の振興などさまざまな仕事がある中の一つです。

 これは、教育を軽視する意味で挙げているのではありません。

 教育は社会の営みの中にあること、そして「生きる力」の保障にあたって教育政策がそれ単体で成り立つものではないことがみえてくるのです。

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「教育の中の行政」・「行政の中の教育」(市の例)
※市長と教育委員会の位置づけを示す趣旨で、他の行政委員会を省略するなどしている

 教育行政は、子どもの教育から、生涯学習、スポーツも含みます。

 子どもの教育についても、公(おおやけ)のみが担っているわけではもちろんなく、私立学校などを含め、さまざまな機関や施設が重要な役割を担っていますが、特に小学校・中学校の義務教育期間は誰もが一定水準の教育を受けられるよう、校区を設定して公立学校への入学のみちを用意しています。

2.行政組織の「顔」と「手足」

 教育分野に限らず、役所にいる職員が実際には仕事をしていますが、大部分は、建前として、首長(しゅちょう)(市役所なら市長)がしていることになっています。

 役所の職員は首長の手足であり、表に出る顔は首長です。法律的には、役所の何千人の職員は、「首」長(「執行機関」といいます)の「手足」(「補助機関」といいます)です。

 こういった話をはじめにするのは、首長以外に、そういう人格をもつ者(執行機関)は、役所の中では、そんなに多くはないからです。

 では、役所の中で首長以外に何があるかというと、たとえば、行政委員会があります。行政委員会には、教育委員会や人事委員会などがあります。

 地方自治法第138条の4には「普通地方公共団体にその執行機関として普通地方公共団体の長の外、法律の定めるところにより、委員会又は委員を置く。」とあります。

 「委員会」というだけあって、人が集まった集合体で一つの人格です。その一つが、教育分野の大部分を所管する教育委員会です。

3.教育委員会とは

 教育委員会は、常勤の教育長と4人前後の非常勤の教育委員で構成されています。合議体ですので、教育長と教育委員を合わせて一つの「教育委員会」という人格です。首長(市長など)は1人で首長ですが、教育委員会は全員ではじめて「教育委員会」という一つの人格になります。

 この教育委員会が、公立学校のことなど、役所が行う教育の大部分の仕事を守備範囲としています。

 教育委員会などの行政委員会は、首長から独立した権限をもっており、首長とは守備範囲が分かれていますので、教育委員会の守備範囲の仕事は、基本的に首長ではなく教育委員会で決めて仕事を進めます。

4.教育「委員会」にしている意味(1)~政治的中立性~

 議会に議決いただくなどを前提として、行政の立場としては、首長(市長など)なら1人で物事を決められます。しかし、教育委員会は複数人が議論してはじめて一歩前に踏み出せるようにしているのはなぜでしょうか。

 一つ目の理由は、選挙で選ばれた首長が1人で決断してしまうと、教育に個人的な価値判断や特定の党派的影響力が強く出てしまわないかということです。個人の精神的な価値の形成を目指して行われる教育においては、その内容は、中立公正であることが重要であるという考え方です。これを「政治的中立性の確保」といいます。

5.教育「委員会」にしている意味(2)~継続性・安定性の確保、レイマンコントロール

 次の理由は、たとえば選挙で次から次へと首長が交替してしまうことがあるとして、そのつど教育方針が変わり、子どもの学習期間を通じて一貫した方針で教育を受けられないとなったら、それは好ましくはないのではないかということです。「継続性・安定性の確保」の観点を重くみていると言えます。

 では、①そうしていることで逆に動きが遅くならないか、

 また、②選挙で直接選ばれた者ではない教育長や教育委員が行うことで、地域住民の意思の反映はどうするのか、

 という声が出るかもわかりません。

 実際に、教育長や教育委員は、首長が議会の同意を得て任命することになっています。

 まず、動きが遅くならないようにどんな工夫があるのでしょうか。

 さきほど、教育委員会は複数人で1つの人格だと説明しました。その人達の中で常勤は教育長1人です。ですので、教育長がフル稼働して教育委員会の仕事をまわすことになります。教育委員会メンバー全員が毎日集まるわけではありません。

 その中で、どう仕事をまわすか。一つは、教育委員会全員で議論をして決定しなければならない内容は重要なことだけに絞り、たとえば日々の定例的な事務は、教育長が1人で決定できることにしています。これを「教育長委任」といいます。

 なお、教育長に委任できる範囲は法律で決まっており、教育事務の基本的な方針や教育委員会規則等の制定・改廃、学校等の設置・廃止や人事面など、地教行法第25条第2項に挙げられている事務は、教育委員会に上げて決定しなければなりません。

 次に、地域住民の意思の反映ですが、教育委員会にはレイマンコントロールという考え方が導入されています。

 これは、教育委員会のメンバーに行政職員や教育界の人間だけでなく、保護者をメンバーに加える考え方であり、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」第4条第5項には、「委員のうちに保護者である者が含まれるようにしなければならない」と規定されています。

 

 今回もここまで読んでいただきありがとうございました。(^^)/

こどもの貧困について

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 以前にSNSで「『努力すれば結果はついてくる』というのは本当か」という質問をみました。

 仏教の「因縁」という考えでは、結果があるのは「原因(当人の行い)」と「縁(周辺環境)」があってのことだと言われますが、つくづく縁は大切だと感じます。

 「がんばればなんとかなるはずで、なんとかなっていないのはがんばっていないからだ」と言われても、またそうした態度で接せられても、たしかにそれは努力を重ねてきた当人にとっては間違いない事実ですが、言われている相手はその人と同じ武器を人生で持たされていないのかもしれません。

 いや、がんばるための武器どころか、がんばる環境も、がんばることができる心の土台を養う機会も無かった人はどうすればよいのか。

 これまでに、教育というのは発達保障の取り組みであることをみていきました。

kobe-kosodate.hatenablog.com

 今回は、子どもの貧困についてみていきます。

1.人によってとらえにくい「子どもの貧困」

 「子どもの貧困」ということが本格的に報道で取り上げられるようになったのは、東京都立大学教授の阿部彩氏の『子どもの貧困-日本の不公平を考える 』(岩波新書)が世に出た平成20年(2008年)頃からだと言われます。

 一方で、それまでも教育格差はあり、現在にも続いていることは、これまでの記事で紹介しました早稲田大学准教授の松岡亮二氏が『教育格差-階層・地域・学歴』で明らかにされています。

 わたしたちの目に映る多くのものは、この70年で大きく変わった。農業従事人口の大幅な減少に代表されるように産業構造も大きく転換し、人々の仕事は変わり、教育を長い年数受ける人も増えた。(中略)

 一方で、生まれ落ちた社会階層によって人生が制限されているという観点では、大きく変わってきたわけではない。親の社会階層が子に引き継がれる階層再生産の研究は、総じて、相対的な格差が多少の変容はあれ基本的には変わらず存在していることを示している。

(出典元:松岡亮二「教育格差-階層・地域・学歴」ちくま新書

 私たちは自分の経験や想像の範囲で教育を語ってしまいがちですが、子どもの貧困という課題についても同様で、同じ「コドモノヒンコン」でもその受けとめはかなり違います。

 兵庫県立芸術文化観光専門職大学の学長であり、劇作家の平田オリザは、『22世紀を見る君たちへ これからを生きるための「練習問題」』(講談社現代新書)で、進学意識の格差についてふれながら、次のように述べられています。

 もはや東京の都心部では、公立中学にも「多様性」は存在しない。(中略)

 (引用者追記:講義される大学の)授業で「文化による社会包摂」といった話をしても、頭で理解はできるが実感がわかないようだ。なにしろ、周囲に貧乏な家の子がいなかったのだから。(中略)

 「相対的貧困」は表面化しにくい。小学生くらいでは、その格差が子ども同士では理解できない。中学生になって、友だち同士で「おい、日曜日にスケート行こうぜ」となったときに、「いや、俺ちょっとやめとくわ」という子が周囲にいて、初めて貧困、格差は実感できる。

 こうしたことを一度も経験しないで多くの子どもたちが、大学生そして社会人になっていく。もちろん大多数の若者は、アルバイトなどの社会経験の中で少しずつ現実に直面するのだろう。しかし、バイト先の選択にさえ格差が見え隠れするのが現状だ。

(出典元:平田オリザ『22世紀を見る君たちへ これからを生きるための「練習問題」』講談社現代新書

 「私の家はふつうだとおもう」と捉えている各人の「ふつう」が、自分と周囲の環境によって異なります。

 「生まれ」によって児童は異なる「ふつう」を生きる。家に本がたくさんあり、親に大学進学を期待され、習い事や通塾することが「ふつう」な子もいれば、そうでない子もいる。同様に、公立であっても各小学校には異なる「ふつう」がある。近所の「みんな」に合わせても、それが都道府県や日本全体の平均とは限らない。(中略)

 親の「意図的な養育」によって構造化された時間を日常として認知・非認知能力を向上させたり、両親大卒層の割合が高く、多くが通塾や長時間学習する「みんな」に合わせていたりすれば、大幅なギアチェンジをせずとも学歴獲得競争で先頭集団を維持することができるだろう。

 一方、長らく学校以外で構造化された時間を過ごさず、同じぐらい親の介入度合いの少ない生活を送っている「みんな」に合わせて「ふつう」な日々を送っていた児童は、中学校に入ってから陰に陽に「身の程」を「公式」に通知されることになる。

(出典元:松岡亮二「教育格差-階層・地域・学歴」ちくま新書

2.経済的資本の欠如が、健康・教育面の欠如やつながりの欠如につながっている

 大阪府立大学教授の山野則子氏は「日本では、貧困を「飢え」や「住宅の欠如」など「絶対的貧困」レベルで理解する傾向があるが、国際的には、貧困は相対的に把握されるべきものと理解されている」こと、そして「等価可処分所得が全体の中央値の半分に満たない「相対的貧困」状態の子どもは、1990年代半ばから増加傾向にあり、2012年に16.3%つまり6人に1人となった」現実を紹介しています。(『学校プラットフォーム』有斐閣

 イギリスの社会学者タウンゼントの定義を元にChild Poverty Action Group(CPAG)が示している、①所得や資産など経済的資本(capital)の欠如、②健康や教育など人的資本(human capital)の欠如、③つながりやネットワークなど社会関係資本(social capital)の欠如、の3つの資本の欠如・欠落を基本的な枠組みとしてとらえられよう。この視点で見ると、経済的資本の欠如が、社会的なつながりの欠如を生み、相乗作用となる

(出典元:山野則子「学校プラットフォーム」有斐閣

 子どもの貧困は、家庭の経済的な問題ですが、それは子どもの健康面に直接関わります。食事の栄養面であるとか、十分な医療を受けさせることができずに我慢せざるを得ない状況につながります。

 また、文化的な経験(いわゆる知的刺激)の欠如につながります。

 家庭や子ども自身の持っている本の冊数や通塾率、博物館・美術館などの文化施設を見学した回数での統計で、そうした文化的貧困の状況が指摘されています。

 ただ、通塾していようが、していまいが、家庭(親)の社会経済的背景(親が高学歴かどうかなど)が、子どもへの日々の教育的関わりや、豊富な語彙での言葉かけの差につながり、子どもの学力の差につながっているという指摘もあります。

 回数だけの問題でなく、家庭の経済格差や社会上の格差が、親や子どもの「本人なりのがんばり」とは違う次元で学力に作用しているのです。

3.愛着の貧困

 それら健康面、知的刺激の問題は前提としつつ、子供の貧困と教育政策を専門に執筆・講演活動を行っているポール・タフ氏は、経済的に不利な条件下にある子どもに関わる問題として、「神経科学者や心理学者、その他の研究者たちは、逆境のなかで育つ子供たちの問題についてべつの原因に焦点を合わせはじめており、私たちも不利な状況、有利な状況についての考え方を修正する必要がある」として、次のように主張しています。

 研修者らの結論によれば、環境による影響のなかで子供たちの発達を最も左右するのは、ストレスなのだ。(中略)

 感情面で見ると、幼い時期に慢性的なストレスを受けた子供は(略)失望や怒りへの反応を抑えることに困難を覚えるようになる。小さな挫折が圧倒的な敗北のように感じられ、ほんのすこし軽く扱われたように感じただけでも深刻な対立関係に陥る。(中略)

 この実行機能がきちんと発達していないと、複雑な指示に集中できず、学校生活にいつも不満を抱くようになってしまう。(中略)

 世話をする人が子供のもつれた感情に鋭敏に、注意深く反応するなら、子供はひどく不快な感情にも自分でうまく対処できるようになる。(中略)親のほんの小さな配慮が、非常に深いところからーきわめて重要な遺伝情報に関わる部分まで掘りさげるようにしてー子供の発達を助けるのだ。

(出典元:ポール・タフ「私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み、格差に挑む」英治出版

 ただでさえ子育ては戸惑いやイライラが募るもので、経済的に苦しい状況では、それが輪をかけて覆いかぶさってきます。

 

 本来的に、子どもに対する愛情レベルが、家庭の社会経済的背景で変わるのではありません。ですので、愛情差ではなく、家庭の社会経済的状況が、現在の社会制度に適応する力を身に着けさせる上での子育て実践の差として生まれている側面があります。

 

 一方で、愛着は後天的なものです。母性も父性もはじめからあるものではありません。まったく経済面や精神面で余裕がない親が、わが子への愛着の芽生えが不足しているとして、誰がそれを責めることができるでしょうか。

(愛着形成の関係は、以下の記事にもふれています。)

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4.まとめ

 神戸市の私立保育園の園長であった牧田稔氏は、神戸市で長く児童福祉活動に挺身された経験から次のように警鐘されています。

 保育現場にいると、子どもの貧困は、生活保護を受けているとか、母子家庭から経済的貧困が生じることは事実であるが、もう一つの子どもの貧困は、開発途上国に比較して日本のように経済的に豊かであっても、私たちの社会は、子どもが成長していく上での親子関係の貧困、養育機能・教育力・家庭力の貧困、食体験の貧困、健康管理の貧困、虐待・育児放棄等による子どもの情緒的・精神的貧困、生活・文化体験の貧困、自然環境の貧困等による影響が一般化してきたことも承知しなければなりません。これらの貧困は、日本の社会病理だと思います。

 つまり、普通の家庭での子どもの幸せや成長が、子育て環境・家庭環境の貧困や地域社会や生活環境の貧困、都市化による自然環境の貧困等によって阻害され、これらの貧困の要因が、子どもの成長に深く影響していることを認識しなければなりません。

(出典元:牧田 稔「ほいくの窓 保育現場から ~賀川豊彦献身100年を覚えて~」)

 国や自治体は、義務教育制度のほか、さまざまな取り組みで、「教育機会の保障」を進めていますが、先述の松岡准教授も先著の中で「「制度上は可能」であるとか「誰にでも機会が開かれている」という言葉は「(可能なのだから後は)本人(の能力と努力)次第」というメッセージを含意する」と、その建前の急所を突いています。(『教育格差 ー階層・地域・学歴』ちくま新書

 乳幼児期からの子育て支援は、保健的支援に加え、親子が愛着を深められる育児支援的要素も非常に重要であり、また、こうした子どもたちの課題をよく理解して、保育所や幼稚園、小学校以降の教師・保育者が子どもの保育や教育にあたっていくことが、不可欠であることが見えてきます。

 

 ここまで読んでいただきありがとうございました。(^^)/

「こどもまんなか社会」と「こどもの最善の利益」

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 最近なぜか、宣伝文句に冷めた目でみるようになってます。

 「とろとろ牛すじカレー」と書いてあるのをみると、無意識に「とろとろ」を外して「牛すじカレー」。

 「名物特製チャーシュー麺」も「チャーシュー麺」ですし、「店長入魂肉汁たっぷり餃子」も、まずは「餃子」と理解したあと、注文するかどうか考えるクセがついてしまいました。

 さて、国が令和5年度の早い時期に「こども家庭庁」を創設するというニュースが、年末に流れていました。

 昨年12月21日に「こども政策の新たな推進体制に関する基本方針」が閣議決定されたことを踏んでの報道です。

こども政策の推進に係る作業部会|内閣官房ホームページ

 この基本方針には副題がついていて、「~こどもまんなか社会を目指すこども家庭庁の創設~」とあります。

 私は、今でも、聞こえの良い「フワッと」した文句を使用して政策案を書くと、上司に「もっと具体的に分かる言葉で書くように」と指導されます。

 一方で、国が「こどもまんなか社会」と明記したのは、私の言葉選びの拙さとは別次元の、国としての相当の覚悟を持った言葉に違いありません。

 今回は、書き出し程度になりますが、基本方針を読んで「こどもまんなか社会」から少しふれてみます。

1.「こどもまんなか社会」とは「こどもに関する取組・政策を我が国社会の真ん中に据える」こと

 そもそも、「こどもまんなか社会」とは何か。これについては、先ほど紹介した基本方針に書かれています。

 (文章の途中から)こどもを取り巻く状況は深刻になっており、さらに、コロナ禍がこどもや若者、家庭に負の影響を与えている。今こそ、こども政策を強力に推進し、少子化を食い止めるとともに、一人ひとりのこどもの Well-being を高め、社会の持続的発展を確保できるかの分岐点である。
 常にこどもの最善の利益を第一に考え、こどもに関する取組・政策を我が国社会の真ん中に据えて以下「こどもまんなか社会」という。)、こどもの視点で、こどもを取り巻くあらゆる環境を視野に入れ、こどもの権利を保障し、こどもを誰一人取り残さず、健やかな成長を社会全体で後押しする。そうしたこどもまんなか社会を目指すための新たな司令塔として、こども家庭庁を創設する

出典元:「こども政策の新たな推進体制に関する基本方針」

 また、以下にも出てきます。

 こども政策については、これまで関係府省庁においてそれぞれの所掌に照らして行われてきたが、2.に掲げた基本理念に基づき、こども政策を更に強力に進めていくためには、常にこどもの視点に立ち、こどもの最善の利益を第一に考え、こどもまんなか社会の実現に向けて専一に取り組む独立した行政組織と専任の大臣が司令塔となり、政府が一丸となって取り組む必要がある。当該行政組織は、新規の政策課題に関する検討や制度作りを行うとともに、現在各府省庁の組織や権限が分かれていることによって生じている弊害を解消・是正する組織でなければならない。

出典元:「こども政策の新たな推進体制に関する基本方針」

 「こどもまんなか社会」とは、こどもに関する取組・政策を社会の真ん中に据えることだとしています。

 省庁間でそれぞれの趣旨に基づいて政策を推進している現状の中、それぞれ子どものことを思っての取り組みではありますが、ともすれば趣旨のズレが対応や取り組みのズレにつながっているとすれば、子どもが関係する事務を同一組織に再編することで、その複雑さが減り、子どもにとって良い方向に向かっていく。

 それは非常に大事な、急ぐべき事項であることがわかります。

2.「こどもの最善の利益」とは「子どもに関することが決められ、行われる時は、『その子どもにとって最もよいことは何か』を第一に考える」こと

 また、さきほど見てきた基本方針には、「こどもまんなか社会」の言葉の前に「こどもの最善の利益を第一に考え」とあります。

 これは「子どもの権利条約」の一般原則の一つです。

・子どもの最善の利益(子どもにとって最もよいこと)
 子どもに関することが決められ、行われる時は、「その子どもにとって最もよいことは何か」を第一に考えます。

(出典元:子どもの権利条約 | ユニセフについて | 日本ユニセフ協会

 子どもの最善の利益とは、「その子どもにとって最もよいことは何か」を第一に考えることとされています。

 他には、平成30年に厚生労働省がまとめている「保育所保育指針解説」に、以下の文章があります。

 「子どもの最善の利益」については、平成元年に国際連合が採択し、平成6年に日本政府が批准した児童の権利に関する条約(通称「子どもの権利条約」)の第3条第1項に定められている。子どもの権利を象徴する言葉として国際社会等でも広く浸透しており、保護者を含む大人の利益が優先されることへの牽制や、子どもの人権を尊重することの重要性を表している。

(出典元:「保育所保育指針解説」厚生労働省

 これまで、国も自治体もたくさんの子育て支援や教育の取り組みをしてきたことは間違いありません。

 ただ、「子どもがもっとも大事(真ん中)」ということと「子どもに関する取り組みがもっとも大事(真ん中)」ということは、似てはいますが、まったく違う帰結を生む可能性をはらんでいるようにも感じます。

 「子どもに関する取り組みが最優先事項である」ことはそのとおりですが(というか、「いまさら感」すらありますが・・・)、「子どもの利益が最優先事項である」ということはもっと大事なのではないでしょうか。

 

 先ほど紹介したユニセフの文章をもう一度読んでみますと、「子どもの最善の利益とは、「その」子どもにとって最もよいことは何かを第一に考える」とあります。

 「子どもを取り巻く社会全体にとってよいことを考えて取り組む」のではありません。「その」子どもなのです。いわゆるケースワークなのです。

3.まとめ

 「社会で子どもは大事ではない」と胸を張る人はあまりいらっしゃらないでしょうから、「子どもに関する取り組みを真ん中にする」だけなら、総論はおおかた賛成だと思います。その推進を主張する人にも何の痛みもないでしょう。みんな賛同し、推進する人を賞賛してくれると思います。

 一方で「全体最適」という大人の言い訳で片付けず、一人ひとりに寄り添った子ども施策を「建前でなく」進めるようとすることは、大人同士の軋轢も生じ、生半可な気持ちではできません。

 また、だからこそ児童発達や児童福祉、教育面の専門的知識も必要です。

 

 最近は殊にコロナ禍も直撃して、もともと大変だった子育て状況が大変なことになっており、親も子も、誰にもぶつけようもない苛立ちやストレスを抱えて、それでも結局は抱えきれずに誰かにぶつけ、負のスパイラルに陥っている話があちこちで聞かれます。

 そのぶつける誰かは、配偶者であったり、学校園であったりするのがよく聞く話なわけですが、親子の場合ももちろんあるわけで、つらい状況です。

 私が言う立場でもないですが、子どもが1歳なら親も親としてまだ1歳なわけですから、すぐにまっとうな親になれる人は、ある意味すごい人なのだと思います。

 今の課題に応えるこども家庭庁やそれを受けた自治体の取り組みにしていかないといけないと思います。

 

 今回の記事は、はじめにフワッとしたものはだめだと自分で言いながら、結局は抽象的な話になってしまいました。

 またどこかの機会で、もう少し具体的にふれていきたいと思います。

 

 ここまでお読みいただきありがとうございました。(^^)/

 

公教育のイロハをふりかえる

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 前回の記事では、学校より先に子どもがいて、その子どもの学習権があって学校が存在するという話をしました。

kobe-kosodate.hatenablog.com

 今回は、ちょっと教科書的な話になりますが、「公教育」「学校」「義務教育」といったワードが何を指しているのか、自分の頭の整理を兼ねて、みていきたいと思います。

1.公教育

(1)学校の設置者

 これまでも、生涯学ぶかまえが、発達段階に応じた体系立てられた学びの環境や援助によって育まれ、主体的に生きる力につながる視点を見てきました。

 公として子どもたちにそれらを育む環境を保障しようとするものが、学校教育という制度です。

 学校は公立・私立ともに公共の性質を持ちます。

 公教育という言葉を公立学校の教育に限定して使われることもありますが、一般的には、公立学校も私立学校も、公教育の実施主体とされています。

 学校を設置できるものは、国、自治体、学校法人に限られていますが(学校教育法第2条)、当面の間、幼稚園はそれら以外の宗教法人や個人等も設置できます。(学校教育法附則第6条)

 学校法人等が学校を設置するときや、市町村が高校、特別支援学校の高等部を設置するときなどは、都道府県の認可が必要です。

 認可とは、質の確保された運営が継続的に可能だと認めることと言えます。 

 「認可」については、以下の記事も参考にしていただければと思います。

kobe-kosodate.hatenablog.com

 私立学校は、『私立学校法』という法律に基づきます。

 私立学校は、私人が寄附した財産などによって設立・運営されることを原則とするものです。私財をなげうって創立者の「建学の精神」に基づいて「独自の校風」を築いてきたという特性に根ざして、所轄庁(公)による規制ができるだけ制限された法制度とされています。

 参考に私立幼稚園について、私立保育所(園)との制度比較をしながら以下の記事でもふれています。

kobe-kosodate.hatenablog.com

(2)学校・教育施設の種類

 学校・教育施設等の種類については、文部科学省「諸外国の教育統計」に学校系統図が掲載されています。

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              (グレー部分は義務教育)

(注)

1.*印は専攻科を示す。

2.高等学校、中等教育学校後期課程、大学、短期大学、特別支援学校高等部には修業年限1年以上の別科を置くことができる。

3.幼保連携型認定こども園は、学校かつ児童福祉施設であり0~2歳児も入園することができる。

4.専修学校の一般課程と各種学校については年齢や入学資格を一律に定めていない。

(出典元:文部科学省「諸外国の教育統計」令和3(2021)年版)

 法に定める学校では、学校教育法に定める学校として、幼稚園(幼稚園型認定こども園も幼稚園の一類型)、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学、高等専門学校があり、これらは、同法第1条に列記されているため、「1条校」と言われます。

 他には、「就学前の子どもに関する教育、保育等の総合的な提供の推進に関する法律」(いわゆる「認定こども園法」)で定められた幼保連携型認定こども園も法律で定められた「学校」です。

 平成27年度開始の子ども・子育て支援新制度により、幼保連携型認定こども園が学校でもあり児童福祉施設でもあると位置付けられたことで、学校=1条校では無くなりました。

就学前の子どもに関する教育、保育等の総合的な提供の推進に関する法律

第2条

7 この法律において「幼保連携型認定こども園」とは、義務教育及びその後の教育の基礎を培うものとしての満三歳以上の子どもに対する教育並びに保育を必要とする子どもに対する保育を一体的に行い、これらの子どもの健やかな成長が図られるよう適当な環境を与えて、その心身の発達を助長するとともに、保護者に対する子育ての支援を行うことを目的として、この法律の定めるところにより設置される施設をいう。
8 この法律において「教育」とは、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)第六条第一項に規定する法律に定める学校(第九条において単に「学校」という。)において行われる教育をいう

 そのほか、学校教育法、教育施設として専修学校が(同法第124条)、また、学校教育に類する教育を行うものとして各種学校について(同法第134条)規定されています。

 なお、保育所保育所認定こども園保育所の一類型)についても、「保育所保育指針」に「幼児教育を行う施設として共有すべき事項」が書かれており、教育的施設としての位置付けがなされています

(3)中立性

 教育学者で兵庫教育大学学長の加治佐哲也氏は、「公の性質」を有する「法律に定める学校」について、次のように述べています。

 公の性質とは公共的性格ということであり、公の性質をもつ学校とは、特定階層の国民や一部地域の住民ではなく、国民全体あるいは住民全体に役立つ教育を平等にほどこす学校の意味である。(河野和清編著『新しい教育行政学ミネルヴァ書房

 中立性について、教育基本法第14条には、第1項に「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない」との前提を置きつつ、第2項に「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない」としています。

 なお、続く第15条には、第1項において「宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない」と示した上で、第2項で「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない」とし、国公立学校における特定宗教の立場に立つ宗教教育を禁止しています。

2.義務教育

(1)就学義務、実施義務、無償

 公教育のうち、普通教育(職業的・専門的でない一般的・基礎的な教育)を保障しようとするものが義務教育制度です。

日本国憲法 第26条

2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

 憲法の「法律の定めるところ」を受けて、教育基本法には次のように書かれています。

教育基本法 第5条

1 国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う。

2 義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。

3 国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。

4 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない。

 ここで「無償」とされているのは、国民(父母など)が、その保護する子女(子どもたち)に教育を受けさせる義務を負っているだけではなく、国・社会もその責任を負っているということです。

 義務として、具体的に保護者には、いわゆる小・中・義務教育学校・特別支援学校小中学部の就学義務が課せられています(学校教育法第17条)。

 また、地方自治体には、親がわが子を就学させる学校を設置する義務を課しています。具体的には、小学校と中学校については市町村に(学校教育法第38条)、特別支援学校については都道府県に(第80条)課されています。

 無償について、判例では「憲法のこの義務教育無償規定は、授業料不徴収の意味であり、教科書、学用品等の教育に必要な一切の費用をまでを無償にすべく定められたものではない」(最高裁1964年2月26日判決)と解釈され、憲法上の無償の範囲は授業料に限定しつつ、1962年に「義務教育諸学校の教科用図書の無償に関する法律」が制定され、同年から教科書についても無償給与されています

 そのほか、家庭の所得によっては、就学援助制度が設けられるなどしています。

(2)フリースクール

 一方、普通教育を受けさせる義務=義務教育学校への就学義務がある中で、その枠組みでは教育を受けられない、また、その教育を望まない子ども、保護者、教育者は、別の場での教育を望む現状があります。

 そのニーズに応えようとしているのが、いわゆるフリースクールなどとよばれる団体や施設です。

 文部科学省も、これまでさまざまな変遷を経ながら、2017年の学習指導要領解説総則編において、「不登校生徒については、個々の状況に応じた必要な支援を行うことが必要であり、登校という結果のみを目標とするのではなく、生徒や保護者の意思を十分に尊重しつつ、生徒が自らの進路を主体的に捉えて、社会的に自立することを目指す必要がある。」としています。

 ある時代につくられた教育制度はその時代の様々な制約のもとにつくられ、それゆえいつの時代もその制度の枠組みではおさまらない人々がいます。その人々の教育を受ける権利を保障するためには新しい制度を考えねばなりません。(中略)

 新たな教育の理念と教育行政の支えにより新しく外延を広げた教育制度は、子どもの教育の機会を広げていきました。今後も様々な人々の教育機会は、新たな理念と教育行政の支えを受けた新たな教育制度によって保障されていくことになるでしょう。

(『アクティベート教育学05 教育制度を支える教育行政』ミネルヴァ書房

3.見方によっては、親権は「権利にあらざる権利」

 ここまで見てきました教育の義務は、教育を受ける・学習する権利の擁護のために設けられているものであり、子どもの権利の目線から存在するものです。

 民法第820条には「親権を行うものは、子の監護および教育をする権利を有し、義務を負う。」と規定されていますが、こうした観点も踏まえ、「親権の権利性とは、義務を第一次的に、優先的に履行する権利であり、その意味では、権利にあらざる権利」(堀尾輝久「教育入門」)だと言われています。

 

 今回は、教育行政の中で、公教育の基本的なところを簡単にまとめさせていただきました。

 

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました(*^^*)

「教育の本来の形」について

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 コロナ禍で少しも気の抜けない中、受験シーズンに突入しました。

 私は、大学受験で、泊まらなくてもいけそうな距離なのに、ビジネスホテルに泊まって受験したいと言い出し、当日の朝にホテルの朝食バイキングに興奮して、牛乳とオレンジジュースとグレープフルーツジュースを全部飲んで吐き気が止まらなくなり、受験する大学の保健室に駆け込み、試験時間に遅れた思い出があります。

 受験生の皆さんは、そんなことにならないよう、どうか体に気を付けて、乗り切っていただきたいなと思います。

 

 よく学校教育の問題点が議論されるとき「結局は小・中・高校の勉強の先にあるところの大学受験が変わらないと何も変わらないよ」という意見を聞きます。

 学習は大学に入るところで終わるものではなく、大学は「大いに学ぶ」と書きますので、大学でたくさん学ぶ人も多いのでしょう。 私は、残念ながらその貴重な機会をいろいろなことに悩むことに費やし、そのときの学習ストックがありませんので、今たくさん勉強しているのかなあと思っています。

 今日は、今までと少し毛色は違うかもしれませんが、子どもの時期にこだわらず教育というものをみていきたいと思います。

1. 生涯にわたって学ぶということ

 教育を受ける権利(学習権)が保障されるべきは、子ども(学齢期)に限ったことではありません。

 「教育基本法」には、「生涯学習の理念」として次の条文があります。

第3条

 国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。

(教育基本法)

 別の記事でもご紹介した東京大学名誉教授の堀尾輝久氏も「ことに変動のはげしい現代社会では、教育は制度化された学校に閉じ込められるのではなく、『あらゆる機会、あらゆる場所』において、すなわちその生涯を通していつでも、どこででも行われるべき」であるとしています。

 

 誰一人取り残さない(leave no one behind)持続可能でよりよい社会の実現を目指す世界共通の目標として、2015年の国連サミットで、「持続可能な開発のための2030アジェンダ」が全加盟国によって合意されました。

 その中で掲げられたSDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)の目標4(教育)にも、「すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し、生涯学習の機会を促進する」と謳われています。

 

2. 「生きる力」とは「学び続ける力」「成長し続ける力」

 7人の識者の主張を『生きる力ってなんですか?』にまとめられた、おおたとしまさ氏は、本著で次のように述べています。

 時代によって、生きていくために必要なスキルは変わります。 しかもその変化は現在加速度的に速くなってきています。 つまり、未来予測は大変困難。 「生きるためにこれとこれが必要だ」と教えてもらうことでは「生きる力」は身に付かないのではないかと思います。 その場その場で自分が生きていくうえで必要なものを自分で見極めて、どうやったらそれを手にすることができるかを考え、そのための努力を続けることができる力こそが「生きる力」の正体であるといえるのではないでしょうか。 学び続ける力、成長し続ける力と言ってもいいかもしれません。

(出典元:『生きる力ってなんですか?』おおたとしまさ 日経BP社)

 

 先日、幼稚園の園長先生に「早期教育をものすごくがんばってやらせていっても、その勢いで大人になるまでついていけるのは一握りの子どもたちで、後の子どもは疲れてしまって、逆にトラウマになることさえある」というようなお話をお聞きしました。

 生涯にわたって前向きに知識やスキルを身につけたい心を養い、他人にゆだねたり、他人への妬みや羨ましさに心を縛られたりせず、自分の頭で考えた道を自分の足で歩んでいけるよう、小さいときからの育ちや学びをずっとつないでいくことが大事なのだということを、生涯学習という言葉は教えてくれているのかもしれません。

 

3. 「自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利」

 1985年にユネスコの国際成人教育会議で発表した「学習権宣言」では、学習権について、読み書きの権利等と並べて、「問い続け、深く考える権利」「想像し、創造する権利」「自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利」 などが掲げられています。

 学習権とは「生涯を通して探求心を失わず、問い続け、分析し、熟考する権利であり、新しい世界を切り拓き、自ら歴史をつづる権利」と、先述の堀尾輝久氏も『教育入門』で言われています。

 

 歴史と言われると、私はガンダム世代ですので、シャアの「君は自分の手で、歴史の歯車を回してみたくないのか」をとっさに思い出してしまったのですが。。。

 ガンダムパワーワード 第117回「君は自分の手で、歴史の歯車を回してみたくないのか」 | GUNDAM.INFO

 

 少し、脱線しましたが、教育の話に戻ると、むしろこの言葉では、「歴史をつづる」のくだりの前の、「自分自身の世界を読みとり」に真髄があるような気がします。

 「自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利」とは、日本語訳の時点ですごい言葉ですが、原文では、「the right to read one's own world and to write history」で、「read」が「読みとる」と訳されているわけです。

 私は英語は苦手でしたので、あくまで印象論になりますが、この「read」は「読解」であり、「読」んで理「解」する。 「その言葉に込めた意味を読みとる、解(わか)る」ということだと思います。

 いわば、「自身の人生の意義(生きる目的)が分かり、それを成就する権利」というところでしょうか。

 これは、完全にイコール生涯学習だと思うとともに、生きることは学ぶことだというスタンスからしか出ない言葉だということがみえてきます。

 

4. 私塾的教育関係が、教育本来の形

 これまで、何度か教育・学習を「教育を受けられる権利」や「学習できる権利」というように、「権利」の観点を大切にみてきました。

 教育を受ける=学習するという行為は、受け身の話というよりも、もっと能動的な感覚があります。

 教育の形態には、家庭教育はもとより、学校だけでなく塾をはじめとしてさまざまな提供体があるほか、学習機会という意味では、学習する本人の意識次第で、有形無形から学ぶ無限といってよいほどのチャンスがあるのではないでしょうか。

 

 教育学者で著名な明治大学教授の斎藤孝氏は「教育の本来の形は、教師が店を開き、そこに生徒側が身銭を切って教えを受ける、という関係だ」とし、吉田松陰松下村塾緒方洪庵適塾を紹介して、「学ぶ側が自分で先生を選び、自らの意思で通ってくる」私塾的教育関係が、教育本来の形であると明らかにしています。

 そもそも塾は、学校と違っていつでもやめることのできるものだ。 自分自身の将来を考えて塾に通う判断を下す。 そうした判断をしっかりとできる子どもは伸びていく。 (略)

 お金を直接もらって教えている、という関係は、教育に真剣さをもたらす。 学校教育では、お金を生徒側からもらっているという感覚を持ちにくい。 公立学校では教育費は税金でまかなわれているので、なおさらだ。 (略)

 教育の成果をしっかりと出さなければいけない、という切迫感は、教育にとってマイナスの要因にはならない。 充実した教育内容と人間的なコミュニケーション、この二つを同時に味わうことができるのが、本来の塾の姿である。

(出典元:『教育力』斎藤孝 岩波新書

 

5. 学校はひとが生まれる以前からそこにあるのではない

 とはいえ、教育機会を均等に確保するために公教育として学校制度があり、間違いなく受けられるように義務教育制度の枠組みで校区が割り当てられ、子どもたちはそこに通っています。

 

 しかし、これとて学校より先に子どもがいて、その子どもの学習権があるわけです。

 学校はひとが生まれる以前からそこにあって、子どもが学齢期になればそこにやらねばならない場所だというのではなく、子育てと教育の責任はまず自分たち両親にあるという自覚をもち、その上で自分たちではできない専門的なことがあり、子どもたちに対して集団的になされたほうがより有効なものがあるという認識に支えられて、はじめて学校は子どもにとっても親にとっても、必要なものとなるのです。

(出典元:『教育入門』堀尾輝久 岩波新書

 

 孟母三遷ではないですが、昨今は「教育移住」という言葉も自然に聞くようになりました。

 子どもや保護者に選ばれる質の向上、指導や支援の専門性に裏付けられた信頼感が求められていると言えるのではないでしょうか。

 

 ここまでお読みいただきありがとうございました。 (^^)/